七月十日の参議院選挙で山田太郎参議院議員が負けた。


新党改革の推薦を受け、全国区から立候補して29万票を得たが、元々弱小政党故に全体的な得票とならずに議席獲得には至らなかった。 

新党改革の荒井広幸代表よりも得票を得たが、現職政治家が落選したことにより消滅する形となってしまった。

荒井広幸は政界を引退することを決め、党も解党することとなった。

落選してしまった山田太郎はどこへ行くのだろう。

本来はみんなの党から出ていたのだが、党首だった渡邉喜美が安倍政権にすり寄り始めてから党としての運営が難しくなってしまい解党することに至ってしまった。

山田太郎は少しの間無所属でいたが残ったみんなの党の元メンバーらで日本を元気にする会を作ったが、所属議員が離党してしまったので政党要件を満たすことが出来なくなってしまい、山田太郎は苦境に立たされることになった。

個人的に会所属の間に表現の自由を守る党を設立はしたが、やっぱり政党要件を満たしていないので既存の政党を探すことになるのだが…。

始めに見つけたのがおおさか維新の会(お維新)だったが選挙区から出ることを条件とされたので、山田太郎は僅か二日間の間だけ所属した形で離島をすることに。

お維新から出れば良かったという声を聞くが、選挙区では組織票が蠢く訳でそこから席を勝ち取るのは至難の技であるのは言うまでもなかった。

お維新に組織票なんてあるわけ無い。

改革を何となく望んでいたような大阪の人が基盤くらいしか無い。

同時に、お維新から田中康夫も選挙戦に臨んでいたが、民進党の小川敏夫の次点で負けてしまった。

知名度や組織票だからどうってなることはない。

勝った小川敏夫でさえも当落ギリギリのラインで漸く当選したのである。

組織票のおかげであろうとも思われるが、組織票がネックになっているということもあるかも知れない。

組織票は頭打ちである。

どこの政党も無党派層を狙っているのは言うまでもない。

今回の都知事選もどこもポピュリズムで無党派層を狙ったような候補者しかいない。

さて、山田太郎が選挙区から出馬していたらどうなっていたか、負けていただろう。

今回、全国比例で出ることに因って所謂オタク層の票が初めて可視化されたのだ。

30万前後である。

誤差はあるが、オタクの基礎票といった所だろう。

これをどう見るか、現実的には後三年迄持つかどうかである。

浮動票なので三年の間に減らす可能性がある。

その為にも、更に拡充させねばならない。 

浮動票とは『無党派層』のことである。

はっきり言ってしまえば白票(棄権票)と言うのはこちら側につくことはない。

此方側、という言い方は変だが現状維持派詰まり体制維持派がマイノリティに就くことはないのだ。

その時の政権や権力者に靡く層なので理解を示すと言っても徒労に終わるだけである。

浮動票、無党派層を抱き込むには自分たちの要望、願いを聞き届けてくれる層を微細ながらも汲み取る必要がある。

即ち、絶対に這い上がって来れない権力者のお目溢しだけで生き永らえさせられている人々を「救い出す」必要がある。

名言はしていないが、絶対悪とされる人々である。

AV関係者の票を得るしか無い。

しかし、これは両刃の剣である。

と言うか、逆刃刀である。

自分が振り翳したら自分が切れてしまう剣である。

ポルノが悪徳とされ、ポルノが絶対悪とされている現状を変えない限り、徒労に終わってしまう。

先ずはポルノをどうにかせねばならないと言う話になる。

だが、それが出来ればもう苦労はしない。

それが出来てしまえば抑々そんな運動なんか意味が無い。

しかし、その方向とは真逆に動いてしまっている。

今、AVは悪徳のイメージが再び付いて回ってしまった。

警察にとっては現状維持で天下り先を確保出来ればいいとしか考えていない。

熟く、権力機構というのは恐ろしいものである。

体制維持、國體の護持が達成されればいいのである。

日本国憲法の話ではない、400年の間築いて来た権力体制そのものである。

左翼的な言い方をすると、庶民が絶対的に辿り着けない憎むべき権力機構であろうか。

庶民は永遠に庶民である。

なぜ、永遠に庶民のままであるか、庶民でなくなったら権力体制が崩れるからである。

良い事として捉えるならば、無秩序から秩序を確立したことである。

法体系を細分化して雁字搦めにした方が逆らう庶民を封じ込める事が出来るからである。

重税を施して財産を確立させなければ自分達に逆らう勢力を抑える事も出来る。


はっきり言ってしまえば、何故ポルノが悪徳なのかと言う問いに答えるならば、ポルノ、引いては売春が世界最古の職業であると言われるように第一次第二次産業の生産業に寄らないサービスで利益を得るからである。

そう言えば、長らく流通が悪徳とされていた時代があった。

流通と言っても、サービス業のことである。

金貸しも悪徳。

それが、産業革命を経るまで悪徳だった。

それが何故、悪徳ではなくなったか、小室直樹の本に書いてあったか。

お金は言うまでもなく生産品の対価を温存するためのものである。

お金を資産に換え、貯蓄し、更なる生産性へ投資する形を取ればそれが溟濛たる世の中から救い出せると感じ取った人々が、暗き権力構造から脱出出来た話でもあったのだ。

印刷技術の発達が教会権力から智慧を取り戻す事を得たように、 産業構造の変革が偏見を持たれていた職業の呪縛を解き放つ事が出来た。

さて、この事でポルノが前近代からの呪縛から解き放たれる時が来るのだろうか、と考える。

技術の亢進が前時代の王を駆逐させる。

しかしそれは命懸けの行いになるのだろう。

ネットの発達がポルノを独占している権力機構を突き崩す。

権力者達は独占状態を崩されたくないために、外国の回避地に迄口を挟もうとしている。

それさえも、見ることさえも、知る権利さえも封じるためにネットが悪徳だと触れ回る。

どんなやり方で以っても。

残念ながら、大多数の人達は悪徳を覗き見る悪徳と言う感覚に縛られている。

日常に忙殺されて他に目が向けられない状況になっているようだ。

それも益々。

自分達では考えずに、権力者に道徳を教え乞うている。

個の確立は失われているのだろうか。

いつの間にか規制されている。

いつの間にか販路が制限されている。

いつの間にか悪徳とされてしまっている。

外国がそうだからという勘違いをわざと受け入れて間違った解釈が伝わってしまっている。

お上が触れ回っているから疑いもせずに唯々諾々と遵ってしまう。

ただ、ここ最近は自分達でものを考えて行動をするようになってきたと感じる。

知は積み重ねることが出来る。

それが「識」である。

人類全体の宝物、それが「知識」である。