永らくこのシリーズを放置してしまった。
このブログのタイトルが「2020年の東京オリンピックまでにオタク文化が一掃されなければいいけど」なのだが本当にあと一年となってしまった。
平成も今年で終わり、新元号「令和」を迎える。
この平成30年間はオタクの闘争史でもあった。
元々オタクが生まれたのはゴジラやウルトラシリーズからだと言われ、彼等が愈々鬼籍と入る時期に差し掛かった。
厳密に言えば彼等はオタクとは呼ばれなかったが。
サブカルの一つに内包されていたのがいつの間にかオタクが分かれてしまった。
洋楽趣味(舶来趣味)も今で言えばオタクの一つなのだがそれがなぜか分かれてしまった。
いつ頃なのだろう。
結局、あさま山荘事件が分水嶺だったのだろう。
左翼は過激なことを辞め、社会に関わることをせずに引き籠るようになった。

この頃もそうだったのだろうけど、所謂気持ち悪いステロタイプのオタクが出現したのはそれから17年後の昭和から平成に掛けて行われた東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件の頃だった。

この17年間何があったのか。
宮﨑勤はこの頃まだ20代で新左翼の世代とは無関係だった。
革命の目標を失っていたというよりも初めからなくなっていた若い世代は個人の趣味に没頭するようになっていった。
世代史論は本田透の著作に詳しいので割愛するが、まだ80年代はオタクにとっても明るかった。
バブル期だったしサブカルの分野であるアニメも漫画もアイドルも音楽も活気に満ち溢れていた。
同時に校内暴力も激しくなっていたが。
革命で世の中を変えるよりも勉強して世の中を変えた方がいいと考えていたのかも知れない。
その詰め込み教育の反発から校内暴力が激化しそれを見直す形でゆとり教育が提唱された。
全ては時代の流れから生まれる歪みを正す上での必然だったのだろう。

こう俯瞰すると、何も宮﨑勤の事件とオタク闘争史なんか全く関係ないのになんでこうも30年間もずっと引き摺った儘で来たのだろう。

宮﨑勤が捕まって宮﨑勤の部屋が公開された。
その自室は大量のビデオテープが所狭しと堆く積もれており宮﨑勤の異常性を際立たせるものとして「演出」されたものだった。
丁度テレビの普及率もほぼ100%で奇しくも宮﨑勤の持っていた「ビデオテープ」を「再生させる機械」も普及し始めていたので大衆のメディア依存もこの頃高い時代でもあった。
マスコミは大量に情報をばら撒いてそれを消費者が答える形で更に要求する。
この形はサッチーミッチー騒動まで引き継がれていた(半年以上ほぼ9ヶ月続いた騒動が収まったのはハイジャック事件が起きた時だった)。
テレビが結局宮﨑勤の事件を永らく引き継がせていた訳である。
宮﨑勤の事件の「御蔭」で保守派は持説を維持することが出来たし、サブカルもモテ技術へ移行することで生き永らえることが出来た訳である。

腐女子は?

腐女子の歴史は少年ジャンプのキャプ翼よりも古いとされており、コミケ黎明期から今に至るまでその数を圧倒させている。
性別の違いはあれど事件以降、世間に上手く溶け込むことに成功して、これもステロタイプのオタクと分離することが出来た訳である。

腐女子が漫画やアイドルに没頭しても親がお金の使い方に注意するくらいで別にマッチポンプ的な社会問題化するような事態にはならなかった。
世間がやっぱりパターナリスティックで性別に甘い傾向にある。

第三世代的にはまだそれ程のスティグマはない。
自分自身がそう認めることに成功してオタクの世界を自分達で救うことが出来た。
これは偏にエヴァンゲリオンの御蔭だったのだろう。
やはり悲惨だったのは第二世代。
エヴァの前にはパソコンも普及し始めて美少女ゲームも出始めたが、彼等自身が大きなスティグマ(傷)を負っており、世間の批判を内面化してしまっていた。
既に学生ではなくなっていたが(ギリギリ大学生か専門生かである)、モテ技術に引けを取ってしまい世間と対話する機会さえも失っていた。
宮﨑勤の起こしたような類似した事件が起きる度に世間は彼等の趣味や嗜好(思考)さえも論い、批難して石を投げ続けた。
世間の悪意に従う形で各自治体では条例が敷かれたり販売規制もなされたりもしていた。
初めから「敵」を作ることで自身らが生き残る術を体得して来たのである。

世間の悪意に関してもまた本田透の著作に詳しい。

しかし、世間の悪意を払拭する機会が訪れた。
そこも本田透の著作である「電波男」に詳しいのだが「電車男」という本がベストセラーとなったことがきっかけだった。

結局あれは脱オタさせて世間のメンバーに組み込ませようとする企てだったのだが、奇しくもそれを映画化、ドラマ化することで主人公のオタクとしてのアイデンティティを守ることになってしまったのである。
ドラマや映画を作るにしてもスポンサーが必要でオタクグッズを捨て去る訳には行かないのである。

あらゆる物語が消費、相対化されて残った最後の楽園がオタクだった。
世間的には塊として小さい筈だったのに、バブルが崩壊して20年近い不況が訪れて少子化の影響で大きな消費が出来なくなってしまったからで、結局世間の方がオタクに頭を下げに来てしまったのである。

工業製品も縮小化して売り出す商品も無くなってきた政府もこれを利用しない手立てはないと考えるようになった。
スティグマを抱えていた筈なのに一転、勝者になった。

しかしそんな動向を許さない勢力がまだその頃存在していた。
10年前の話である。
宗教団体と警察とスパルタ教育などの疑似科学を信じていた保守派だった。
既に「オワコン」と化していたカルト団体や保守派が無駄な足掻きをして警察に梃入れを始めていた。
※実は疑似科学を信じるのは保守派だけでなく左翼や市民主義者も同じである。

スティグマを抱えた第二世代がオワコンカルトの未だ支配する状況に妥協をしようとして批判を内面化させ後世のオタクを文化的統一価値観の元支配しようとしていた。

間接統治に見える。

しかし、そんなことをしようとしても無駄だった。
既に第三世代や第四世代はスティグマを抱えることがなくなっていたのでスティグマ世代の空回りで終わってしまった。
実は第二世代もスティグマを抱えることはなくなっていた。
知識人にありがちだったスティグマの克服は知識を蓄えることで逆にスティグマを内包することとなっていたのだった。

誰かとは言わない。
言うが、ゲンロンマンである。

丁度東京都青少年健全育成条例の改正案が通るところだった。
結局通ってしまったのだが附帯決議でもって政府政権権力者への批判が摘発されないことを育成条例に盛り込まれた。
結局この時点で負けたのだが、成人区分の出来ないBL本がバンバン規制されるようになってしまった。
これも女性はエロであってはならないというミソジニーが世間を未だ支配しており、やはり宮﨑勤事件での別れ道となったことが起因する。
すっかりアダルト向けが男性向けのものと意味付けられてしまい、女性向け区分が作られることがなくなってしまった。
それでなくても女性向けアダルト作品が流行らないことも起因する。
商売にならないのは端的に言うと女性が独身でいる必要がないのである。
これもまた、腐女子の処世術と同じで世間に妥協(結婚)することでアダルト作品を消費することがなくなる訳である。
婚前交渉の少なさや独身率が男の方が高いのは男が世間との妥協点を見つけられなくてそのまま行くことが多い。
これもオタクを生む要因にもなったりするのだが。

残念ながらこの国は未だ男尊女卑が支配する。
女性が世間との妥協を逸早く選ぶことでミソジニーがそのまま温存される結果となってしまう。
その結果、ネットではミソジニーへの怨嗟で満ち溢れるようになってしまった。

電車男と同じ構図だ。

世間の価値はそのままで軍門に下ることで価値を温存させる役目を背負い込む。

そう言えば奥様は取り扱い注意というドラマってそう言う感じのドラマだったな。

独身でいる気魄も気概もない大衆は結局軍門に下らざるを得なくなる。

独身であっても逆に実家暮らしのケースがある。
この場合は少し特殊なので別の機会とするが。

女性が世間と妥協せざるを得ないというよりもミソジニーを抱えているから(弱さを知っているから)偏差値の高めな志望校へ行くような感じで結婚を急ぐ。
※全員が全員そうではないので注意。

BLは結婚しても楽しめるという。
腐女子から貴腐人、セレ腐などと言うような言葉があるように結婚していても腐女子を続けられる訳である。
逆に男のオタクも男尊女卑思考に囚われており、オタク趣味を結婚によって捨て去らねばならないという感覚にも囚われる。
お金がある訳ではないので子供の教育費のために余計な支出が出来なくなるから捨てさせられるのである。

男もそうして世間へと妥協せざるを得なくなるのである。

厄介なのは、過去オタクだった者やスティグマを抱えたオタクが内面化させた批判を取り出して棍棒として振るうところだ。
それもほぼ五年くらいまでの話なのである。

もう、今はそうではない。

そんなことをする必要がなくなってしまった。

逆に前述のような考え方だと孤立を深めるだけである。

敵とは、罪を内面化させた己自身である。
時代の流れで一見見えていた敵が引っ込んだだけである。
諸行無常である。