この5年半もだけど色々と世の中が変わったようにも思える。
都知事は2回変わった。
舛添要一になったら表現規制に拍車がかかるとは書いていたが、そんなことはなかった。
というよりも舛添のケチケチで都民から嫌われて辞めざるを得なくなってしまったからである。
都知事選の前に参議院選挙があってその時ではあるが山田太郎が落選はしたものの29万票を取得したので当選した小池百合子東京都知事はアニメランドを作るとか突拍子もない事を言ったが結局表現規制に掛かるようなことは終ぞ言わなかった。
流れが一気に変わったとは思ったが、国内での権力による表現規制は鳴りを潜め、所謂国内での戦いは終わったのである。
ただこれは別の話ではあるが、民間による表現規制や外国勢による表現規制はいまだに猛威を振るっている、どころか益々その勢いは増していると言ってもいいだろう。
これをどう防ぐかにもよるが、国民自体に教育が必要としか言いようが無い。
国家権力による表現規制の嵐は終結したのだが、それでもまだ残っている。
塀の中での平和を謳歌したいのならこれ以上の戦いは不要だろう。
でも、そこから目を背いていては結局権力の言いなりのままである。
刑法175条をどうするかである。
社会通念や公共の福祉を掲げて表現の自由を侵すのである。
憲法に介入しようとするのなら、法的根拠を示さねばならないのに、というよりもそれに適った法律を新たに作るべきなのに昔の判例で済まそうとして国家権力がどんどんと表現に介入しているのである。
これは怠惰であり堕落であり、権力が腐敗している証拠である。
これを打ち破るにはどうするかである。
民間ファシストらがコンビニから成人向け雑誌の追放に躍起になるのならそれこそモザイクなんかいらないだろうが、それでもモザイクが存在する。
一体何のためのわいせつの罪か。
モザイクがあるからわいせつではない、と言う根拠は何なのか。
モザイクがあったって摘発するではないか。
国家権力の胸先三寸で判断が左右されるのだ。
これほど恣意的なものはない。
何がわいせつかは国家権力が決めるという判断である。
突き詰めれば文化を国家権力によって判断されるのである。
何が良い文化か何が悪い文化かは国家権力が決めると言うところまで行き着く。
実際にそう動いているし一元的な決め付けがこの国の活力を殺ぐ。
クールジャパンと言いながら結局は明治の薩長閥が作った内務省の流れを汲んだ警察権力による統制で締め付けられるだけである。
実際これもそのように動いている。
と言うよりも実際そう動いていたと確認が取れるところがあった。
GHQによって一度は解体された内務省が省庁再編で総務省として復活を遂げたのである。通信事業も掌握しているのでその力は内務省程ではないが強いと確信が持てる。
東京都青少年健全育成条例も結局はこれは罰則規定なので警察主導の仕事を増やすだけだった。
インターネットやバーチャル表現から子供を守るとか、つまり早い話パターナリズム全面に押し出した条例を敷こうとしていたので青少年だけでなく結局国民を統御したいだけの話だった。
この背景にはカルト団体のロビー活動もあって自分達への批判を躱すか自分達の主義主張に沿うように仕向けさせてもいた。
多様な価値観において自分たちの主張や教義が通りにくいというのは致命的である。
それならば国家全体に敷き詰めようとすればいいではないかと考えるのがカルトの発想である。
10年前は与野党逆転して民主党が与党となっていた。
カルトが肩入れしていた与党が逆転したのだからそれは焦るだろう。
カルトが道徳を盾に脅しを掛けてきたのである。
皮肉にも新しい歴史教科書をつくる会がカルトに乗っ取られてしまいあらゆるメディアもカルトに乗っ取られ攻勢は不利になっていたのである。
道徳とか世間を盾や棍棒にして襲いかかったのである。
それが10年前だった。
結局都条例は押し切られたが、附帯決議でもって権力の暴走に楔を打ち込んだ。