岡田斗司夫はオタクかと思ったが、なんと 女を複数囲っていたとのこと。
なんだ、リア充じゃないか。
オタクは二次元に限るとかは嘘である。
岡田斗司夫自身が偽物なのだろうけど、オタクがハーレム囲うなんて正にアニメを描いたようなものである。
アニメの主人公は時としてハーレム展開が生まれるが、ゼロの使い魔の才人なんか周りからモテる男だったよね。
でも才人に惹かれる女性陣には愛はあるのだろうけど、才人自身にはルイズにしか愛を感じなかった。
真実の愛はどうやって描けるのだろうか。
少なくとも岡田斗司夫、オタキングにはそういうものはなかったようだ。
自分が一段高いところから俯瞰する姿勢を取って来たようだ。
こんなんでは女にはモテないだろうと思うが、そんなことはなかった。
メンヘラを拐かして囲っていただけだった。
それなら他の人なら出来るのかといえば、そんなことはない。
オタキング自身相対主義の権化だから、そういう話術には長けていたのだろう。
オタキングがなぜ今迄慕われたかといえば、そういう魔術を持っていたから他ならない。
男に対してはコネをちらつかせて自分が大きい存在に見せる。
女にもそういうやり方なのだろう。
私自身、オタキングの本を何冊か持っているし、オタキングの主張に頷ける箇所は幾つかあったりする。
これは事実だし、今更引っ繰り返そうとも思わない。
とは言っても、これ今思えばオタキング自身の実践集なのかなと思ってしまう。
しかし、オタクの実践の行き着く先が「アレ」となるともう駄目だろう。
オタクは結局幸福になれないということである。
オタキングが「新しい恋愛の形」等と言い訳めいた事を言ったが、あれは姑息な手段である。
その場凌ぎの言い訳である。
誰に通用するのであろうか?
自己肯定の極致である。
そう言えば、エヴァンゲリオンの結末は自己肯定であった。
息苦しい世の中で生まれて如何にして死なずに生きるか、この世界で自分が生くるに相応しいと肯んぜねばならないか、ここ30年は呻吟していたろう。
その答えをオタキングは見つけたのである。
それで十分通用したのである。
オタキングは道徳を説いたつもりはなく、処世術を説いていた。
処世術がオタクの道徳だったのである。
道徳とは権力者や強者のためにあるとするのだ。道徳とは統治の理論。
オタキングは世間に向けたのではなく、自分の信者やオタクに向けて言っていた。
それでオタクの王様になれたのだろう。
こう照らすと分かり易い。
一所懸命に説いたのは別に新しいことではなく、奴隷道徳、ルサンチマンに過ぎなかったのである。
このルサンチマンをオタクは受け入れた。
このタイトルが作品になっているのもあったな。
奴隷道徳とは、自分が奴隷であることを肯定するという感情と言う事らしい。
強者による統治の理論が道徳なら自分達で新たな生きるための指針を設けねばならないとするのが、奴隷道徳であり、オタクの処世術だった。
当然、実践者のオタキングには道徳というものがない。被支配者のオタクは常に石礫をぶつけられる存在であるからだ。
恋愛も出来ない。
オタクに出来る訳がないのだ。
だからこそ新しい形の恋愛が必要だった。
オタキングが自爆したのは、やっぱり現世肯定に縋ったからである。
オウム真理教の麻原彰晃が自分の作った庭に信者を押し込めたが、本人は市民社会の価値観をちゃっかり享受していたことから、人は魂がある限り、欲望、渇望から逃れられない。
電波男の本田透の方が行者に見えてしまう。
オウムが既存の価値観から隔離しようと考えてたが、オタキングの新しい価値観は現代社会に寄り添う形で別の生き方をするということであった。
オウム真理教になる訳にはいかないので、『オタクは既に死んでいる!』と説いたのである。
ぶっちゃけ、現代社会から隔絶した生き方をすることは出来ないからだろう。
本田透はほんだシステムで還元させようと考えてたらしいが、それをあっさりオタキングに覆されてしまった。
オタキングはオタク初の価値観が世界を覆せるとでも思ったのだろう。
それこそオウム真理教が描くようなことではないが、色々と「反」を示そうとして来たのかも知れない。
その「反」こそ「相対主義」なのだ。
相対主義が既存の価値観を突き崩す鑓のようなものだった筈だが、結局それが中身を伴ってなかったのでもろくも崩れ去ってしまったのである。
その相対主義の権化を相対主義者達は崇め奉って来た。
勝ってもないのに勝ち気でいられる。
負けたくはないから相対主義で負けを認めない。
あらゆる価値は等しい、そう言わしめて来た。
それでオタクたちは30年間の塗炭の苦しみから少しづつだが逃れようとして来た。
美少女アニメが好きでいいではないかと。
コミケに行ったっていいではないかと。
趣味を語ってもいいではないかと。
アイドルを追っかけてもいいではないかと。
お金を自分の事に使ってもいいではないかと。
馬鹿にされる謂れはない。
馬鹿にする方の趣味は何だ、それが至上価値なのか。
バブル時代はあらゆる消費活動が肯定され、正に恋愛至上主義が蔓延ってそれに附随する体育会系的なノリも相俟って軽佻浮薄な文化を支えていた。
当時の消費活動に乗れない人の苦しみは計り知れないものがあっただろう。
それを打ち崩すのがオタクの持つ相対主義の鑓だった。
鑓というよりも防衛術なので、楯だろう。
しかし、軽佻浮薄なバブル文化は弾け、長い不況が訪れた。
もう20年である。
最後の消費者であるオタクが生き残ったので、それに当て込むようになったためにオタクが最終的に勝利者なき勝利者となった訳である。
少子化が進むのはオタクしか残っていないから。
オタクを新たな消費者に仕立てようとしてもそれが失敗しているのだ。
頭打ちである。
今、スキー場が盛況らしい。
バブル時代にスキーへ行った世代が子供連れで再びスキーをするからだそうだ。
常に勝者である。
要するに、これが中間層なのだ。
現実は厳しい。
中間層の復活とはこう言った世代を甦らせ、活力を入れることである。
本当は民主党はオタクのために色々と力を入れてたりもするのだが、オタクにしてみれば何故だか自民党との親和性が高い、ように見える。
頭が固いように見えてしまうから中々受け入れられないのだと思う。
中間層が復活するとオタクは生きづらくなる。
尤もバブル時代なんかは民主党は存在しなかったから、全部自民党で調整は社会党だった。
労働組合が減って来ているし、民主党の代わりになってるのが左派の維新の会(維新の党) である。
右っぽいことを言っている維新の会だが本当は左派。
愛国的な左派と言っても良い。
これが何故だか変なのだがどこの国でも左派と雖も愛国的なのである。
日本くらいで左派が売国だったりするのだ。
今では保守と名乗っても国を売りかねない事も有り得るので一概には言えないのだ。
さて、この売国愛国右派左派と捉えていてもオタクに優しいか厳しいか、それだけでもオタクにとっては政治家の扱いはシビアなものになる。
表現の自由を守る野党、与党にもいるが、それを庇おうとすると生きづらい世の中になる。
オタクの生き方を肯定しようとするものならば逆に規制だらけの奴隷道徳を享受する事を肯定せざるを得なくなる。
何時まで経ってもオタクは勝利者になれない。
永遠に敗者の儘でいる事を甘んじなければならない。
オタキングが敗者でいられないような生き方を見つけ出したのだろうが、この作戦は失敗である。
愛がないからだ。
でも、愛とはなんぞや?
誰も説けないのであればオタキングを否定出来ない。
それだからオタキングが勝っていられる。
相対主義だから敗者が存在しない。
でも、市民主義社会の輪の中での勝者(演じたつもり)だから自爆しているのである。
現代のオタクですらオタキングを誰も庇わない。
そりゃそうで文字通り無様であるからだ。
エヴァンゲリオンの劇場版でアスカがシンジに向かって「気持ち悪い」と言い放ったのと同じである。
世間の壁は厚い。
端から見れば自己肯定の塊ほど醜いものはない。
だから、我々は斃れた醜い屍を客観的に観ることが可能なのである。
オタキングに始まってオタキングに終わるのだ。
オタクにとっては依るべき教祖なんていないのだろう。
寧ろ勝手に教祖を名乗られては困る構えである。
東浩紀がそれ目指そうとして失敗した。
これに関しては散々言って来たので今更言及するつもりはない。
オタクにとって基本的に個人だから別に他の人が価値観を与えなくても十分に生きていけるからである。
オタクはそれでも生きて行く。
愛という形は世間には理解できないであろうが、それはキリスト教的な愛かも知れぬし、仏教的な捉え方からすればこの世に縋る愛の形なのかも知れない。
本田透どこ行ったのかなあ(´・ω・`)
でも語り尽くしたから別にいいか。