このブログでは今年初、になるのだろう。

今ではすっかりアニメレポートとなってしまったが、残念ながらそのアニメレポートも滞ってしまって申し訳ない。

って、誰に謝っているんだ。

この過疎ブログを読んでくれている読者さん向けである。

さて、本題。

このブログ開設の目的は2020年の東京オリンピックが開催される時に「外国に日本の『お・も・て・な・し』をアピールするべく恥ずかしいと思えるものを排除する」動きを監視し、禦ぐことにあった。

戦後、表現の自由、言論の自由、思想信条の自由が憲法にきっちりと明記されたにも拘らず、これを公共の福祉の名目上弾圧に奔る動きが幾つも何度も存在した。

お上から下々まで、誰も自然権を尊重しようとはしなかった。

誰も憲法とは何なのか理解しようとはしなかった。

理解する気もなかった。

畢竟、保障とは『俺様が気に入らないを押し通す自由』でしかなかった。

「嫌いな納豆をスーパーで売るな」と言うものでしかなかった。

相手は違うということを理解出来ない、これが殆どの人に見受けられる現象であった。

皮肉にも言葉は一つだから相手と自分は同じという同一性を図るものの表れでもあった。

その、言葉は一つというのは相手に理解させるツールでもあるので自分の考えが相手に伝わるものだということを勘違いさせてしまうものでもある。

理解出来なければ強制させる。

結局自分ただ個人でしかないのに言葉が通じるという「勘違い」から相手も自分だと思い込んでしまう。

相手の顔はよく見えるが、自分の顔は見えない。

鏡を通してでしか見れない。

しかもその顔は歪んで見える。逆さまに見えるからである。

逆に自分なんてものはどう見られているかわからないのだ。

何も顔だけでなく、文章も同じである。

自分が書いただけでは分からない。

よく、一夜明けた自分の文章を見返すと恥ずかしいと言われるが「振り返って客観視出来た」ということだろう。

Twitterも自分の書いた文章を振り返る人っているのだろうかと思う。

感情に乗っけて呟くケースも多々見受けられるが、共感もするだろう。

感情も共感の一つだから。

独り善がりかも知れない。

所詮呟きだから。

共感出来なければ相手をブロック。

Twitterはそうした意味では便利なツールではあるのだが、村社会を生んでしまっているようにも見受けられる。

共感者だけで固まる、そうして段々と村社会へと変貌する。

世界はグローバルとなったがコミュニティはセクトと化してゆく、とは誰かが言っていたが正にその通りとなってしまった。

ここ最近の傾向だと感じるようになった。

嘗て日本のSNSと言えば2chではあったが、「あたまのおかしなひと」の所為で荒れ、掲示板は秩序を無くして、各々の板では規制が入るようになってしまい衰頽していってしまった。

まだまだではあろうが、全盛期程ではない。

匿名掲示板故に誰しもが書き込めると思ったが、カテゴリーによる村社会で個人の性格が顕著になってしまった。

全く匿名ではないのだ。

この「共感」が曲者で、共感する者が多ければ縦令匿名であっても共感か否かで必然と偏る。

個人の感情が優先されてしまう無秩序な社会において、自分への支持が明らかに減ってしまうとその世界を壊そうと、なかったことにしようとして破壊衝動に狩られる。 

秋葉原連続殺傷事件なんかはそれであった。

煽る方も悪いのだが、ハブられ、孤立化してしまう原因を作るのは本人のせいでもある。

言葉は通じる、と思ったら大間違い。

仲良くしろ、猫を被れ、とは言わないが相手がそう思うというのをどうして考えられないのだろうか。

自分の考えが絶対だから相手が絶対に平伏すと思うのだろう。

その根拠はなんなのか。

誰もその保証はしない。

自分の僅かな経験則と伝聞で積み重ねているだけである。

その崩壊した2chに嫌気が差し、Twitterに鞍替えした人も多いだろう。

匿名は好きだが誰も匿名を望んでいない。

北斗の拳に出て来たジャギそのものである。

なりすましてはいるが顔を隠しているのだから匿名である。

しかしその仮面の奥底では憎悪を募らせている。

正義の味方は日常生活を穏便に過ごすために悪人を懲らしめるべく仮面を被るが、北斗の拳では悪人が仮面を被る(素顔を隠す)。

醜くなってしまった素顔を曝け出したくないエゴが世間への取っ掛かりを残そうとしているようにも見える。

やはり、武論尊・原哲夫・堀江信彦ら三者トロイカ体制で作った北斗の拳は先見の明があったのだ。

核戦争は起こってはいないが世界は無秩序へと突入している。

そう感じる。

自分の我儘が通せる時代である。

そうでもしなければ自分の生存権が脅かされるのだろう。

世界は未だ戦乱に明け暮れているのに、日本はそんな世界ではない筈なのに生きた心地はしないのは何故だろう。

誰しもが穏便に過ごそうとして誰しもが相手を慮って自分を押し殺しているからなのだろうか。

最低限の生活を送れる筈なのだが。

世界は、自分の人権どころか自分の生存権すら危ういのに。

その、最低限の生活が問題なのだろう。

最低限の生活は平穏を安寧されているが文字通り奴隷である。

自分の生活を向上させたいのに向上させてもらえないのが奴隷状態と言える。

誰が己の向上心を阻むのか。

権力者か、男社会か、それとも上司か、もしかしたら自分と肩を並べる者か、下から突き上げて来る者たちか、身内か、本当は自分で自分の裾を踏んでいるだけか。

遺産相続では刃傷沙汰になる場面が見受けられるが、自分が本来貰うべき取り分を他の者達が足を引っ張っているという感情に囚われるのだろう。

上を見ればきりがないのは当然である。

パイも椅子も限られている。

相撲の幕内とていつ己が土俵から蹴落とされるか堪ったもんじゃない。

逆に生活の向上、名誉の獲得をすべく椅子に座っている者を引き摺り降ろそうかと画策している。

これが現在の社会である。

さて、これで自分の生活と名誉の向上を阻むものは誰なのか、明らかになってくるのではないのだろうか。

次回、考えてみようかと思う。
 





奴隷のしつけ方
マルクス シドニウス ファルクス
太田出版
2015-05-28