詳しい解説は避けよう。

最近なるべくアニメはチェックして観るようにはしている。

このアニメは個人的には面白かった。

だが、ネットでは少し荒れてしまったようだ。

漫画原作でそれをアニメ化した作品だが、このアニメの終わり方は原作とは違うような終わり方をしたらしい。

自分は原作ではなくてアニメを観る派である。

面白かったが原作を読もうとは思わない。






舞台はとある東北の山奥。

仙台を東北の首都と位置づけているような東北を舞台としたアニメ。

東北なのに巫女役であるまちの巫女服は蝦夷紋様をあしらった衣裳を纏っている。

そして北海道にしかいない羆がいてしかも人語を解し機械さえも操作する。

まちよりも機械の扱いには長けておりタブレット片手に商品の購入をしたりとかなり近代化された熊である。

村興しのために担ぎ出された中学生のまちは嫌々ながらも町興しに参加させられるのだが、結局周りに溶け込めなくて引き籠もってしまうのであった。

羆のナツはこんなことを言う。

「そのままでいいんだよ」 

「何もしなくてもいいんだよ」 

まちは中学を卒業したら都会へ出る気持ちでいた。

しかし都会は苛酷だったようで山奥へと引き籠もる。

引き籠もることを是としたアニメって、これなんか前にあったような気がする。

エヴァンゲリオンのテレビ放映版である。

劇場版とテレビ放映版と新劇場版の三つは公式にあるのだが、オリジナルはそのテレビ放映版である。

もう20年も前である。

苛酷な世界に居なくても良い、ずっと有りの儘の自分の儘で良いと肯定させる形で終わった。

20年前だったら評価出来たであろう。

しかし、20年も経てば時代が変わってしまう。

エヴァを観ていた視聴者はもう何れか父か母になっている筈だ。

大人なのである。

引き篭もってはいられない年である。

大人社会がそうさせたのだから子供達には罪はない、と言われそうだがその大人とて年を取って軈ていなくなってしまう。

軈てこの世界を背負って立たねばならない。

そうやって子供達に宿命を背負わされていたのである。

皮肉にも、アニメは子供の観るものではなくなった。

少子化で採算が取れなくなりアニメは大人が観る深夜枠へと追い遣られてしまっている。

エヴァでは通用した甘ったるい感覚であったが、それは観る大人には通用しなくなっていた。

他の視聴者はどう感じていたかはわからなかったが、少なくとも、というか自分が観た感じではこんな形で良いのかなと思ってしまった。

変わらない自分を肯定するのはある種の甘えと捉えられる、が、成長しない事を前提とするアニメはいつだって変わらないで終わるのである。

ちびまる子ちゃん、ドラえもん、ルパン三世、コナン、サザエさん、クレヨンしんちゃん。

ロングランアニメはいつまでたっても年を取らない前提である。

だが、ドラえもんは映画では微妙な変化を演じさせていたようであった。

藤子F不二雄が原作を手掛けていた頃の映画ではドラえもんやのび太に変化を与えさせる演出をさせていた、らしい。

ドラえもんの道具が使えなくなったり、ドラえもんが機能停止に陥ったり、世界が滅んだりとこの時のび太ならどうするという判断が求められていた、ようなのである。

試練を与えるのだという。

そう言えばまほろまてぃっくも美里優に数々の試練を与えていたようだ。

まほろが機能停止するタイムリミットという設定を設けた筈だったのに、優が成長させるにはそれが優自身への成長にはならない、ということに気付かされたようである。 

まほろまてぃっくはエヴァンゲリオンの続篇と自分の中では勝手に位置づけている。

作者両方共エヴァのファンであり、アニメはGAINAXとエヴァを手掛けたアニメ会社であった。

エヴァから突き放されてしまった子供達は自分なりに結論を追い求めようとしていたのである。

本田透が言うにはそれが鍵作品(ビジュアルアーツの作品)であると。

千仭の谷から突き落とされた子は如何にして這い上がるか。

皆で結論を見出そうとしていたのだが…。

しかし、誰もそれは見つけることが出来ずに遂には親が教導する羽目となってしまう。

子供は何時迄も子供なのである。

千と千尋の神隠しでもあれはあれで自立を謳うような話と目されるがそんなものではない。

子供である庵野秀明のことを親である宮﨑駿の方が分かっていたのである。

帰る所があれば元に戻ってしまう、そしてダメな大人の責任を子供が背負うというものである。

キャラクターたちは作者の作った試練を乗り越えてゆく。

そうできている。

話を戻すがくまみこでのまちも試練の連続である。

成功したり失敗したり続くが結局克服が出来ずに引き籠もりを選んでしまう。

作中でも既に用意されていた。

自分で窯に火を熾さなくても電気さえあればご飯が炊けるし、全国一律での商品も届く。

服装も都会と何ら変わらないものが売られていたりする。

差異は殆ど無くて最早まちの思い過ごしではないかということさえ感じられる。

心の壁が出来てしまっているようだ。

丸でATフィールドのように。

まちの自立を促すのはナツである。

ナツはまちにとって父親みたいな存在である。 

無条件にまちの甘えを受け入れてしまっている。

「何も考えなくていい」 

とナツは言った。

余計なことを考えなくて済む時代である。

これこそが、パターナリズム。

漸く本題である。

パターナリズムとは家父長制度、家父長主義である。

良かれと思って権力者が被支配層にあれこれ教えを導いたり指図したり、余計なことをしないように障碍を払い除けたりする父親の温情を意味する。

ナツの体は大きい。

体が大きいことはそれは恰も父親の如くである。

しかしこのパターナリズム、どうも最近の潮流のようである。

しかも世界的に蔓延しえいる。

考えることに倦んだ民は父親に全てを託そうとする。

成長するのを拒む子供達が日本だけでなく世界中にも蔓延っている。

苛酷な世界に生かされている子供達は父親の元へ帰りたがっている。

父親に全てを任せればいいと子供は願っている。