漸く観終えた。

二年越しだった。

阿呆らしい。

なんで溜めたんだろうと思ってしまう。

余裕がなかったのかなと思う。

映画化するというのだからその前に観終えないという観念に囚われた。

本放送が終わった後にSAO展が始まったもんだから観もしないうちに行ってきた。

だから、このキャラは一体何なのかさえ分からずに観ていたのだが、あの展示もネタバレ的なものはなかったようにも思える。

観ていくうちに漸く理解したのだが、正直感想としては「面白かった」と言える。

前回も面白かった。

その期待もあって今回も観たが、前回は星5つとしたら星4つといった所か。

余りにも、というかシノンの業に対してキリトの業が取ってつけたような合わせたように感じた。

第一部完の時はその主張をするために遠回りだったのかと思えば、妙に納得もできるものなのかと感じる。





ソードアート・オンライン abec画集
abec
KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
2016-01-19
































考えて見れば、ソードアート・オンラインの世界は今から10年後の世界、というか9年後に差し掛かってしまった。

2015年を過ぎたが未だに汎用人型決戦兵器は出て来ない。

デバイスの進化はなされたが、スマホとかだが、それ以外は止まったままだ。

ドラえもんを観ればよく判る。

願いは最先端だが、デザインはその時代のものの縛りから離れられない。


SAOは少し遠くない(遠くなくなった)未来だから雰囲気は現代止まりを演出させたのだろうか。

キリトもアスナも今なら7~8歳位なのだろう。

シノンが小5の時に強盗を撃ち殺したとされるが、シノン5年生の割には小さいな。

TOUGH外伝の龍を継ぐ者では姫次が小学生の時に人殺しをしたような感じにも似てなくもない。

シノンは公式では銃が暴発して犯人が勝手に死んだことにされているので人殺し扱いされていない。


シノンのトラウマシーンを演出させたかったのだろうけど、それは余り強くないようにも思える。

個人的には「いらないな」と思える。

前作の方がゲームの死が現実の死とリンクしていた緊張感が味わえていたのではないかと思えてしまう。

シノンの視点中心と捉えるとそう「弱く」感じるのだろうけど、キリト視点と捉えるとデスゲームのトラウマが残って未だに引き摺っているのをどうやって克服していくのか見ものだったのだが…。

何時の間にかキリトのそれが克服されてて拍子ぬけた。

あの病院での看護師さんのカウンセリング受けて克服したのかとそう考える。


この作品はバーチャル(仮想空間)では決して起こり得ない現実の死を背にした物語、もう一つの現実があると言わせたかったのだろけど、一期のデスゲームのインパクトが強すぎて二期以降でもそれを用いざるを得なくなった訳なのだろう。

反復というようなものか。

ジャンプで言うところの敵を倒したらまた次の敵、同じようなバージョンアップに囚われる因果に苛まれるような物だろうか。

二期の前半(ファントム・バレット)はそれを演出させ、後半の第一パート部分(エクスキャリバー)は死こそ無いものの、後半第二パート(マザーズ・ロザリオ)では現実に死にそうな人がネットに意識を仮託させた話である。

死が側にないとこの作品の面白さが出て来ない。

それないと単なる将来から目を背けるネトゲ廃人の話になるだけだ。

現実にアスナはそれになりつつあった。

将来から目を背けてバーチャル(現実でも会っているが)な先のキリトに現抜かしているのだから。

アスナがずっと目覚めずにネットの世界で生活していたからすっかりと現実世界を忘れてしまったようである。

母親が将来を悲観するのは宜成物哉。

バーチャルでは成長しない。

そのままである。

シノンにストーキングまがいのことをしていた男も現実世界に挫折してバーチャルに居場所を見つけようとしていた。

まあこれ、何かというとオウム真理教じゃないか。

あるいは現実に絶えられなくなったマトリックスに出て来る機械側に情報を売り渡した男とか。

現実は惨めな自分、現実に逆らえない自分、バーチャルが自分を許してくれる。

でもこの作品って、バーチャルだからこそフラットになれるということを表したかったのではないかと。

オウム真理教とは言ったが、ストーキングまがいのことをしたやつも現実世界では普通にスペックが高くてキリトが膝蹴りをかましても怯むことなく逆転するほど力がある持ち主である。 

一番になれない人の苦し紛れってところなのだろう。

こう言う人は至る所でどこにでもいる。

下に堕ちたくないから別の世界で一番になろうとする考え。

この仮想空間の世界は死んだら抜け出せないとあったが、沼に嵌まれば抜け出せないようなものである。

エクスキャリバー篇では死なない安心感があっても、現実世界を嫌がり抜け出したくないとなるともう死んだも同然である。 

正直に考えるが、二期も面白かったがある意味少年誌にありがちな展開で多少食傷気味を感じていた。 

次はあるのだろうか?

ゼロ魔はほぼ最後までアニメで続いたが、ハヤテは話がいくらか抜かされており(アニメではナギたちが家を追い出された話がすっ飛ばされてしまっていた)もうアニメ化の話題さえ無くなってしまった。 

あらゆるアニメは同じような展開の話がリリースされるが、同一作品においてアニメではその次が無かったりする。

DVDなどのソフトが売れればという話だが、原作の話が同じような繰り返しだとアニメでは続かんだろう。

て、考えてみたが殺人事件の解決物では殆ど同じ話なのになぜかずっと続いている奇蹟。

ジャンル違うし別にいいか。

そういや、SAOも新キャラが増えればその次の回には仲間になっていた。

ドラゴンボールや魁男塾的でもあるが、取り敢えずキャラのマイナーチェンジはしないだろう。

キャラのマイナーチェンジ化を防ぐために「死」を設けさせているのかも知れない。

デスゲームの時は早い段階で一緒に旅していた仲間が死んでフェードアウトしてしまったし、ユウキもその回だけで終わってしまった。

こう言う場合は北斗の拳方式なのだろう。

しかしユウキ、今際に自分は社会の迷惑をかけている存在だと言いよったな。

これも見ようによってはメタツッコミである。

オタクたちはそのようにさせられているとでもか。


ネットの強さが現実での強さであれば良いねと思う。

作中はみんな神経すり減らして生き延びているのだから超人だ。


まあ、漫画の世界だよねえ。