共謀罪が衆議院を通った。

共謀罪という名前ではなくテロ等準備罪という名前に変わって法案が通過した。

後は参議院となるがこれも時間の問題であろう。

テロ「等」 と「等」が付いている時点で恣意的な運用がなされるのは必至である。

テロに限定とは言うが、それならばテロと組織犯罪にすれば良いのだが、「等」 に拘る辺り運用者の思惑が透けて見える。 

果てしなく疑問が生じる。

何故そこまで自己決定権を捨ててお上に全てを附託しようとするのか。

普段の仕事や生活に逐われて他の事まで手が回らないからなのだろうか。

政治とは自分一人だけでは解決できないことを附託させるシステムの一つでもあるから陳情を出したり、投票行動に出るのは何も間違ってはいない。

治安維持とて言うまでもない。

解決不可能なことを権力者に委ねることは間違ってはいない。

通信傍受法や破防法や暴排条例は要望がなされたものである。

(この暴排条例とて人権侵害の憲法違反なのにそのことに気づかない人々がいるのだから恐ろしい事この上ない。このことに関しては後述する。) 

共謀罪は過去何度も廃案となった。

過去何度もと言うことから何度も執念深く出して来たということ他ならない。

必ず通してやるぞという執念に満ち満ちている。

一体誰が出すのか。

答えは警察である。

本来は内閣が出して来たのだが、警察が権限を拡大するために世論の意識を捻じ曲げ、着実に自分達の思惑を浸透させてゆく。

広報というかPR、テレビを使って治安維持の素晴らしさを説く。

しかし、その中にどのような意図が込められているかを庶民は知らずに。

何度も出す辺り強権的な政権が出ることを待ち望んで各種法案や条例を通してきたようにも感じられる。

何度も何度も。

何十年掛かっても自分達の権限の拡大を狙っているようだ。

戦前において内務省の権限が強大だったが、戦後は解体されて警察の組織力が弱ったこともあって不良外国人(ヤンキーも含む)が大手を振って専横を極めていたこともあった。

そのこともあって日本のヤクザの走りが自警団を組んで治安維持を任されていたこともあった。

ヤクザはその間に力をつけ勢力を全国的に拡大させることに成功していた。

国家も住民もヤクザを利用してヤクザの横暴を見て見ぬ振りをして来たのである。

強大となったヤクザはアメリカにも勢力を拡大して来て遂にはアメリカから「日本のヤクザをなんとかしろ」と言われるようになる。

共謀罪に組織犯罪の項目(つまりヤクザのこと)が入っているのはその為である。

なんとかしろというのは、潰せということである。

しかしヤクザは潰せない。

各種法規制を制定してヤクザを抑えこもうとしてもヤクザは潰せない。

憲法が集会結社の自由を認めているからである。

憲法の意義は、法の下の平等である。

本来ならば、条例や法律で属性を規定して動きを抑えるのは憲法違反なのである。

条例はその管轄する自治体にのみ効力を発揮するので日本国全体には及ばないという考え方なのであろう。

共謀罪は組織が関わってくるので当然法律の運用者にさえ適用されるはずなのに政治家や公務員には適用除外となっている。

この法律自体が憲法違反である。

政治家や公務員は初めから悪巧みをしないと言う設定なのだろう。

これでは根本的な意味が変わってしまう。

これに賛成を示す庶民が法の下の平等の意味を分かっていないのだから只管呆れるばかりか、恐ろしさを感じる。

明治時代に法治国家を目指した意義が消え失せて江戸時代に逆戻りしてしまいそうである。

抑々庶民自体が法の下の平等を臨んでいないようにも感じられる。

いじめが蔓延り、それが無くなる気配が一向にないのは庶民が虐めを容認しているからである。

ヤクザもそうした共同体から除外された人々が集って出来たものの一つであると言って良い。

共同体の暴力で追い出された人々が逆に暴力で共同体に暴力を振るうのは皮肉である。


頻りに一般人は除外と言うが、一般人とは何なのか。

罪を犯さない人が一般人とでも言うのか。

抑々共謀罪は「共同謀議で組織犯罪を起こしそうな人達を捕える」事に因むのではないのか。

GHQが日本政府に対して共同謀議で戦争を仕掛けたという罪状を捏ち上げて東京裁判を起こしたのだ。

戦争自体が罪に問えないのでそうした罪状で裁くしかなかったのだろう。

でもこれも、戦争自体を罪として日本政府や日本国全体を罪人に仕立てることで歴史を糊塗させようと狙ったのではないのかと思える。

「それが常識」 という風に刷り込ませて検証を不可能にさせるのである。

お上が善という意識も江戸時代からの由来であろう。

結局明治政府も江戸時代に乗っかってしまったが努力したことも垣間見られる。

人治主義の江戸時代(三権が分立してなかったとは言っても前近代の法律である掟や法度があった)から法治主義に移行した時の明治時代について行けなかった人が結構多かった。

それは時代を経ないと解消されなかった。

それを経て国会が出来て議会も議論もなされるようになっていった。

とは言いつつも、幕末外国が攻めて来てから人々は議論をするようになっていったし、古代からも議論をすることはあったのだ。

議論をしないというのは議論が出来ない、話が通じないということである。

昔、バベルの塔を建設した時に人々の言葉が突如通じなくなって落雷によって塔が崩壊したという神話があったが、恐らく神の所業と言うよりも議論が出来なくなってしまったのではないのかと思われる。

言葉が一つというのは建設の設計まではみんなOKだったに違いない。

建設途中で意見が割れ始めた。

この事はよくある。

材料や規格、予算や工程や進捗状況、政権の交代等で揉め始めたのだろう。

独裁国家で巨大なハコモノがよく見られるのは強大な権力者の一声で完成されたと考えられる。

仮令どんな無理であったとしても押し通すための力倆が問われるのだ。

ピラミッドが砂地という幸福もあったろうが各地に残っていたりするのも強権独裁だったろうと考えられる。

無理強いとかではなく大きな目標があったから完成する。

タージ・マハルは一つではなくもう一つ王様自身の霊廟が作られる予定であった。

それがないのはその後の権力基盤が無くなったからだと考えられる。

お金のこともあるし。


このことから実は共謀罪とはハコモノを作る際の反対意見を潰すために作られた法案なのではないかと思われる。

外国からの要請やテロとかは関係ない。

法律とは飽くまでも国内のものなのである。

外国、国際間だったら条約や議定書であろう。

しかし日本国憲法は憲法という最高法規よりも条約を遵守するということまで書いてあるのだから我が国は戦後一貫して連合国の奴隷状態であると見て良い。

本当は憲法を変えねばならぬのだが、その条約の部分も変えねば縦令憲法を変えた所で全く意味が無い。


ハコモノを作らせるのは公共事業である。

公共事業は政府の善い行いという前提に立つのでそれに反対する人々は必然的に悪となる。

環境権がないが生存権はあるので反対して自分達の生活環境を守る行為は当然である。

ここで日本国憲法と衝突するのだろう。

全て公共事業を行いたい政府にとっては本当は個人の権利を尊重する憲法なんて要らないのだろう。

憲法が邪魔だから自分達で奴隷を遵わせる憲法草案を作ろうと考えているのだろう。

こうなると国民の概念が無くなってしまう。

生まれた時から政治家を出来る環境にいる者がほぼ永続的に政治の立場に置かれるのである。

反対者を潰すことは野党の存在を許さないということである。

身分や階層が出来れば政権は安定するだろう。

人々が、それを望んでしまっているように感じられる。

新自由主義の実験がここ20年近く行われれた。

その間でズタボロにされた人々が望んだのは政府による保護。

しかし、その保護がまた前近代的なパターナリズムに因っている。

政権の安定は生贄を作ることにある。

前近代や古代はそうして政権を安定させてきた。

縦令政策や経済状況がガタガタで不備だらけで特定層に対して贔屓塗れであっても生贄さえ作れば政権を安定させることが出来るのである。

安倍政権がそれに当て嵌まるかも知れないが精々数年が限度であろう。

その後なのである。

ポスト安倍というものが存在しない。

反対者や技巧者を潰してきたからである。

まともな政治集団が存在していない。

安倍以降ではまともな政治を行えるかどうか不明である。

今の政治家に碌なのが揃っていないのがよく判るのだが、小選挙区制の弊害とも言われる。

金権政治とも言われて小選挙区制を選んできたのも国民であり、そして新自由主義を選んだのも国民であり、共謀罪を選んでしまったのも国民である。

国民が政治を監視することを放棄してしまったがために政権の横暴をみすみす見逃してしまっている。


強力な保護とはいってもそれは政権に従う人々のことを指す。

それ以外は適応除外。

自分達の稼ぎがないのは自己責任であるという理論が相変わらず横たわっている。

それならば自己責任を背負わされた者達はどうするか、クレームで意義申立することも自己責任の一環だと思うようになり世の中が不毛なクレーム社会となる。

そこから物事に関しても知らなかったことが自分のせいではないという理論も出来始めてしまった。

本当は無知であることも自己責任のはずだったがそうではなくなった。

知らないことは自分の与り知らないことなので開き直りも見せ始めるようになった。


ここ最近の社会はそうした自ら刺々した鎧を身に纏うようになった。

相手を責めれば自分が責められない。

足を引っ張ることで自分が揺るぎ無い所にいられる。


いつ自分が下層へ転落するかわからないから勝ち馬に乗りたがっているようにも見受けられる。

理論はとっくに放棄して自分達の立場を確保するために相手を攻撃するようにも思える。

相手の不備を見つけたらとことん責め立てる。


共謀罪も自分達の地位を安定たらしめるための法律なのかもしれない。

治安維持法が密告で支持されたように共謀罪も密告や通告で支えられてゆくのだろう。

少し前、入管法が少し変わった事で「在日が強制送還される」 というデマを信じて法務局に一斉に通報してサーバーをダウンさせたことがあったが、こう言う社会が到来するのだ。

デマだと分かっていても自分の思い込みや無知に由来することさえもかなぐり捨てて開き直りをして、自分が信じていたものが正しかったのだという謎理論を展開し始めたのである。

ポスト真実(ポストトゥルース)が形成される。

色々あるだろう。

学芸員は癌という発言もポスト真実に沿った言い方だからあのような言葉も出て来るのだし、亀田企画がボクシングを盛り上げるといったのもこれはマスコミの当初からの思惑が優先されたのもので、実際にはマスコミというかテレビ局が生き残りを賭けた企画の一つに過ぎなかった。

亀田企画は寧ろオルタナ事実(オルタナティブファクト)に近いかもしれない。

あれは方便でありフェイクニュースだ。

実際にはボクシングの盛り上がり方に何ら影響はないのである。

飽くまでも亀田興毅というキャラに注目が寄っただけである。

ボクシングそのものには何も影響はない。

ボクシングルールで行った訳ではない。 


人々は自分が考えていることと実際になされることに思惑との齟齬が生じ始めると正当化して自分の中で軌道修正を図ろうとする。

ボクシング村田諒太が負けることで自分という存在を見失うのが怖いと言っていた。

これは蓋し名言であると思う。

自分が壊れる。

壊れた自分を直視したくないからいつまでも自分を誤魔化し続け生き残りを図ろうとする。

勝ち馬に乗り続けることで敗北する自分を直視することはしなくて良いだろう。

未だに保守派がイラク戦争が間違いだったということを認めない。


憎き敵に足を掬われたくはないだろう。

揚げ足取りし合ってマウンティングパンチし合ってアウトボクシングし合う言論状況。


共謀罪も対象が紛れも無く一般人であるのにそのことに関しては誰も見向きもしようとはしない。

誰が悪人、犯罪者と決めるのか。

警察当局である。

組織犯罪は誰が行うのか。

ヤクザやテロリストなのか。

警察が100%検挙できないのは分かりきったこと。

現実にヤクザは蔓延っている。

謙虚実績を水増しするためにせせこましい点数稼ぎするに決まっている。

山口組が四分五裂しているが何故なくならないのか。

本気でヤクザを撲滅しようと思っているのか。

ヤクザを撲滅するために憲法改正でもするのか。

憲法改正する際に集会結社の自由に制限をかけるのか。

そんな社会を誰が望む?

公の秩序を乱さない、公共、すぐ政府にすり替わる。


共謀罪に公務員や政治家が除外されているのも政府が善政を布くという前提に立っているからであることは前述した。


自分達は対象外と思っているからこそ自分が嫌い、自分達が憎い相手を犯罪者に捏ち上げて通告する社会にさせるのだろうか。

そうして不信社会を形成してゆく。

虐めがなくならないのも社会が虐めを容認しているからである。