10月7日、フジテレビ系列で宮崎勤の特集を組んだドラマが放映された。

宮崎勤の役を坂本真が演じていたがあんなに太っていたっけ?と思うくらい役作りに徹していたと思う。

秋元才加はリポーター役をしていたが、実際には存在せずに当時のリポーターは男だったのを何故だか女体化する形になった。
随分と役が上手くなったと思う。

金子ノブアキは唾汁ブシャーだったが、大分作品としては大きな進歩を遂げたと思う。

何故今、と思うがやっぱり今なのだと思う。

30年は、世代がガラリと変化する。

そうでもしないとまともな検証が出来ないからなのだろう。

ただ偏見を押し込めて弱い物虐めをしておけば庶民が権力への監視から目を背けさせることが出来たからである。

30年間もよく押し込めたと思う。

やはり、当時を支配していた層が第一線を退いたからだろうと考えられる。

当時の支配していた層がしばき全盛でスパルタ教育を推進させオタクたちを根暗の上に犯罪者まで塗り固めたことで長らく権力の維持を図っていたのがよく判る。

ドラマは、所謂偏見に基づいたもので構成されているものではなかった。

宮崎勤はただの人間と結論づけていた。

ここまで来るのに、一体どれほどの年月を要していたことか。

オタクが犯罪を起こした、精神異常だから起こした、そう言うレッテル貼りはそのドラマにはもはやなかった。

大衆が棍棒振り回して権力の安泰を下支えする時代が終わった。

大衆が、公民となって物事をまともに判断する時代に入った。

そしてその瞞しを最後の政府が再び行おうとしている。

最後の政府が去年の都知事選で意地を見せた。

国を支配しようとした権力機構の残影が東京から支配しようと画策していた。

皮肉にも権力闘争に敗れた者が権力機構の残影を相手にして勝ってしまった。

権力機構の残影は東京支配から一時期ではあるが退却した。 

これは大きかった。

警察機構さえも持っていた権力機構の残影がこの闘いにおいて負けたのである。

権力闘争に敗れた者が、力を得るために各方面から掻き集めようとしたのだがその一つに、今まで権力機構の残影に虐げられた人々がその年の参議院選挙で多く投票したことによって、可視化されて今まで強権的な右派だった者が軟化したのである。

これも大きかった。

主義主張は結局のところ権力を得るためにはかなぐり捨てるものだなと実感する。

今の都知事がファシストだとかはどうでもいい。

敵はそれではない。

権力機構の残影が相手である。

さて、この今まで書いてきた『権力機構の残影』とは何なのか、 改めて説明するまでもないのだが政権に寄生して国民を支配しようとする幻の勢力のことである。

具体的には、はっきり言って寄せ集めなのではあるが所謂『保守派』に属して戦前回帰というよりも明治や江戸時代やら将又神話や伝承に沿わして日本を作り変えようとするアナクロニズムの勢力のことである。

権力に寄生する宗教団体、警察機構、経済団体、新自由主義の靴を舐めた株主ら、政治団体、教育者やスポーツ関係者などの文教族、芸能界、言論人、はっきり言えば全然保守ではないのだが政権を守ることが保守と呼ばれるようになってしまった。

年代的には戦中戦後に生まれた人で戦前戦中の具体的な実感を持たずに幻影を追っかけている人である。無論、兵隊にも行ったことのない人達である。

もう彼らにもその力は無くなってしまった。 

筆頭格だったとされる石原慎太郎が耄碌を晒してしまった。

石原が可哀想だったという向きがあるが、その後の発言などを見るとやはり庇いきれない。

老人が増えすぎてしまった。

自分達が年老いていることさえも自覚できていない。

枝野幸男が上下の分断とも言っていたが正にそれでもあると感じる。

アナクロニズムの権力機構の残影が年老いて影響力を失いつつあるのがよく判る。

東京オリンピックがその最後の打ち上げ花火なのだろうと思う。

保守と言いながらも汎ゆるものを破壊し尽くしてきたなと思う。

東京オリンピックが終われば全てが終わり、そしてこれからが始まる。

大阪万博をもう一度とも言うが、その時日本の国力なんてあるのだろうか?

若い命を喰らい尽くして来た老人も生きているのだろうか。

もりかけ問題で浮き彫りになった新自由主義と保守派の誤魔化しも破綻を来してきたようにも思える。

もう騙されない。

権力機構の残影が国民を支配する時代が終わったのである。


ネットには神様がいる
山田太郎
日経BP社
2016-11-17