2020年の東京オリンピックまでオタク文化が一掃されなきゃいいけど

タイトルの通りです。 オタク文化を権力に縋る連中から守るためにブログを書くことにしました。 微細な力ですがどうかよろしくお願いします。

叛逆と抵抗

セカイの終わりその4 奇しくもオリンピックがセカイを救わんとする鍵となっていたとは

このブログを作ったのはオリンピックが東京に招致が決定したことへの危機感からだったが、現実はそれすらも大きく凌駕するとは思いも寄らなかった。

よく国際イベントを招致する際に地元の猥雑な文化を滅ぼしていくという定番が行われて来たのだが、それは恐らく東京でも行われるだろうと予想はされていた。
実際、東京都青少年健全育成条例の改正議論もそうしたことに因むものだった。
東京に残存する猥雑な文化を滅ぼして東京にオリンピックを誘致しようと言う、パターナリスト達の思惑があった。
石原慎太郎がそうした旗振り役を演じ、周りもそれに同調して色々なことを進めて来た。

国内世論を巻き込んで都議会だけでも議論に議論を重ねた結果、負けてしまったのだがその後に山田太郎が参議院選挙に立候補しては票が届かず負けてしまうのだが案外票数を獲得したこともあって与党側が表現規制を施すことすらやらなくなってしまった。

ここまでは良かった。

しかし、コロナ禍によって人々の活動が今正に抑制されるようになってしまった。

形を潜めたと思われていたパターナリストが再び蠢き出した。

恐怖に怯えた世論が自由を手放して鎖を繋げて欲しいと叫び始めた。

大きなイベントも止めろの大合唱。

夏のコミケがオリンピックの影響で5月に繰り上げようとしたところこれも世論を恐れて断念。

コミケは世論の動向を一番よく知っているからこそなかなか開催に踏み込めないでいた。

凡ゆるイベントも中止や延期となってしまった。

感染対策を講じても世論が暴走して断念する例は多分に漏れず。

オリンピックも世論の前に敗北して無観客という選択肢を選んでしまった。

実は、オリンピックの動向こそが日本の凡ゆるイベントのみならず日常を取り戻すチャンスだったのである。

感染対策というものが全く意味をなさなくなってしまった。
本当は世論を気にし過ぎて中止という選択肢を取るところだったのだろう。
都議選では過半数取れなくて敗北という形を取ったようだが、結果的に都民ファーストの要求を飲んでしまった。

オリンピックやコロナが最早政局として利用されるのだが、世論はそれに気付いていないようである。
与党も与党で秋の衆議院選挙を気にしてしまい観客動員を捨て去ってしまった。
医者側とすれば「民をして」の誤用の方を好むのだろうが、殆ど力技でこの一年半以上やって来た。

だがこの7月のみならず8月9月も同じことが行われるのは確実となってしまうのである。

秋の衆議院選挙のために凡ゆることが犠牲になるのである。
野党も本来なら自由を尊重すべきなのだが政局のためにそれすらも捨て去ってしまった。
10月まで続く。

セカイは終わりを見せなかった。
正反合にはならなかった。

小池百合子都知事が以前アウフヘーベンを用いていたがそのアウフヘーベンすらならなかった。

人は愚かで進歩すらなく、命の期限が迫ることを感じつつ毎日恐怖を感じながら生きる実感を得ている。

ワクチン接種がどこまで進めばいいのかという説明をマスコミはしない。
政府すらその指針を示さない。
愚か者達は100%しかないと思っているからである。
マスコミがPCR全国民検査を主張し始めたから国民はそれに従ってしまった。
PCRがワクチンに取って代わられてしまっただけである。
ワクチンの全国民浸透なんて現実的には有り得ないのだが、マスコミはワクチン接種で自分達のしでかしたことを収めようとしているのである。
だからワクチン接種の目標がない。

マスコミが責められるのを躱すためだからだ。

ワクチンによる副反応が出ていることは明らかになっている。
それもあってワクチンを打たない人も出て来る。
当たり前である。
ワクチンの接種目標が100%なら永遠に達成することはない。

いずれマスコミはこうしたことも責められるだろう。
日本を壊したことの落とし前はつけなければならない。

オリンピックの中止は免れたが結局無観客という着地点に着いたので、実質敗北に等しい。

感染対策を講じた大規模イベントも世論の恐怖と暴走を前に中止を余儀なくされてしまっている。

このことは今後も続く。
9月にはゲームショウもある筈だがこれも中止に追い込まれるだろう。
衆議院選挙の前に全てが犠牲になるのだ。
そして今年も潰れる。
変異株が出現してワクチンが効かないと言い始めてまた繰り返す。
医師会の脅しで5類にすら変更出来ずに永遠に風邪に怯え続けるのである。
永遠とは言い過ぎだろうが、これから団塊の世代が後期高齢者になるに連れこうした世論もまた強くなるのである。

自民党としては結党以来の党是である憲法改正が目標にあるのでどうしても選挙に勝たねばならないのだろう。
憲法改正までの素地は出来ているので後は憲法議論に入る筈である。
4つの項目とは言うがこんな状況では4つすら儘ならなくて結局「自衛隊」をどうするかという議論で終わるだろう。
憲法9条の2項をどうするか。
9条自体は残るであろうが自衛隊が書き加えられて憲法9条そのものの意味合いは残るのだろう。
何せコロナで臆病さを見せつけたのだから武器は保持するが交戦権を削除するようなところまでは行かないだろう。
段々と見えて来た。
この憲法改正するまでにどのくらいの犠牲を強いるのか。
国内で凡ゆる犠牲を作っておきながら憲法改正まで粘るつもりなのである。
国民や臆病者の世論はそのことまで見えているのだろうか?
まさか知らぬ間に自分達がそのレールに乗っかっているということに気付いているのだろうか?

個人的に憲法改正は吝かではない。
以前あった自民党憲法改正草案は糞そのものだったが、自衛隊明記するところまでは評価したい。

憲法改正した暁には、国会議員全員辞めるべきであろう。
国民に犠牲を強いた責務を背負って、と思ったがこれは解散総選挙になってしまうだろう。

憲法改正したのなら自民党としての目標は果たせたので自民党は存在する必要もなくなる。

全てを終わらせて、零から始めるのである。




セカイの終わりその2 天気の子が意味するもの

遅くなってしまったが天気の子について完全にレビューしようかと思う。

とは言いつつも、既にやって来たことだとは思うが、新年に地上波初放送だったのでそれに合わせていくつか簡単に感想を考えてみる。

ゼロ年代のセカイ系が流行った背景は改めて言うまでもないがエヴァンゲリオンが纏められずに投げっぱなしとなってしまったことに因る。

それ以来、数多のオタク系作品はそうした所謂「セカイ系」を題材としたテーマを掲げて闇夜を迷うオタク達に燈を与え照らして来た。

と、まあこんな風に時代背景を言ってしまえばこんな感じだろう。
オタクじゃなければこんな世界観なんてなんじゃらほいである。

しかし君の名は。が超ヒットしてその続編(なんだよ)の天気の子もなかなかのヒットを飛ばして、広く一般的にも「セカイ系」の片鱗に触れることが出来たであろう。
意識高い系とは違うけど、別次元の話とも思う。

現実逃避のセカイ系が流行った理由としてはやっぱりオウム真理教の存在を語らずにはいられない。

80年代だったらもう一つの解釈されたセカイ、オルタナティブとまあ言うべきか、エリートが挙って没頭したカルト教団のオウム真理教が席捲していた。

とは言っても現実的には泡沫も泡沫で政治の世界には掠りにもしなかったのである。
幻想が現実を食い破ることなんて叶わなかったからその現実をぶち壊そうとしたのがオウム真理教だった。
豊かで、恵まれた社会に生まれた筈なのに生き甲斐ややり甲斐すらも感じずに狭隘な自己を認めてくれる小さな小さなセカイに埋没してしまう若者やエリートが少なくなかった。
これよりも前には社会主義革命に幻想を抱いたエリートや青年達が挙って暴力革命に乗り出そうとして数々の事件を起こしたこともあった。

どれも結局叶うこともなく、現抜かした人々は諦め、社会に向き合うことにした。

どれも共通して捉えるのは、若者の無知と暴走とも言えるだろうが、そうした暴走する若者に対しても同情を抱き理解者のつもりでいる大人が少なからず存在した。
そう言った大人達も嘗ては革命に恋焦がれて夢半ば諦めてもそうした同じようなことを繰り返す若者にシンパシーを感じているだけだった。
そうした大人達の所為で中々暴走する若者達を検証することができなくなっているようにも感じる。

革命ごっこをやっているのが年寄りばかりで若者がそれにあまり興味を持ってなさそうなのが、側から見ると体制側に飼い慣らされているようにも見えるが、初めから豊かであればわざわざ反撥することもないだろう。
選択肢と多様性があれば若者はどこへでも行ける。
斯くして、社会を引っ繰り返そうと思う若者はいなくなった。
それは幸福だと思う。
一番幸福な時代に生まれた後世の人々は、障壁を感じずに生きていけると思う。

新海誠は天気の子以前の作品でも身分違いの恋の時代ではない故に離れ離れになる恋人達を描いて来た。
時代や身分違いという障壁があってこそ悲劇とかが生まれたのだが、今はそんなものがない。
あとは容姿とか能力とかそんなのだろう。

ほしのこえ、秒速、雲の向こう、言の葉、プレ君の名は。と言える作品はどれもヒロイン(恋焦がれる人)に会えぬもどかしさを描いて来たが、これに共感するのはやっぱり豊かな時代に生まれたオタク達で彼らの悲哀こそであるとでも言えるのだろう。

オタク達が悲しみを背負わなければならなくなった理由の一つとして散々挙げて来たが宮崎勤の事件がある。
時代的にはオウム真理教が勢力を伸ばした頃とほぼ重なるが、オウムが崩壊してエリート崩れの行き着く先がなくなったところで漸く見つけたのがエヴァンゲリオンだったのだが、片や宮崎勤の事件でこれまで平穏無事だったオタクにも風評被害が及んで立つ瀬もなくなったところに降りて来たのが同じくエヴァだったのだが、テレビシリーズは奇々怪々なストーリーで終わり、その数年後の旧劇でもメタ批評をしてしまい視聴者を置いてけぼりにしてしまったことで再び「彼ら」は道すがら迷うこととなってしまうのである。

こうした話は本田透の「電波男」などの著作に詳しいのでこれ以上は省くが、その後に泣きゲーも大流行し始めた。
結局、一般市民の間でもパソコンが買える時代になってソフトもプレイ出来るという豊かな時代に生まれた子供達でしかなかったのだが、オタク達は自己解釈のセカイに没頭するのであった。

だが、既に説明した通りそんなことが許される時代でもなくなってしまった。
オタクが世間と無関係に生きようとしても世間が許す筈もなく、その魔の手はじわりじわりと侵食し始めていたのである。
90年代の有害コミック排斥運動からほぼ20年後に東京都が青少年健全育成条例を改正するという動きが出始めた。
それもその筈で、オタク達は一切合切社会と関わりを持とうともしなかったから政治の世界で何が起きているか理解も出来なかった。
権力に飼い慣らされて大人しくした方がよいという判断を今まで選んでいたら一気に追い詰められてしまった。
子供達が宮崎勤みたいになるという妄想を根拠に「この国の大人達」がオタクを生贄にして子供や若者を支配しようと企み始めた。
何度も繰り返して言うが、オタク達がどうなろうと知ったこっちゃなかったが、この条例を通したら日本は法治国家を自ら否定することになると危惧した。
別段エロくもない絵を持ったりするだけで条例違反となってしまえば、これは法の下の平等に背くのではと感じるようになった。
オタクであると言う属性で犯罪者のレッテルを貼るとなると正に近代法治国家、民主主義国家の否定に繋がるとそう感じた。
都だけでなく全国での反対運動が起こり、結局は都条例が通るのだがオタク達は政治家を送り込むことを決意する。
初めて、30年来でオタク達が団結したとも言える。
時代は変わった。
都条例騒動から10年以上経ったが、政府や国家による露骨な表現弾圧はなくなった。
オタク達の勝利で間違いないのだが、現実的には少子化高齢化や成熟社会や通信網の発達のお蔭で旧来の方法論が丸で通用しなくなったというものがある。
間違いなくオタク弾圧に手を貸していたのがマスコミだったのだがそのマスコミそのものがネットのツールによって逆に批判に晒されるようになってしまった。
マスコミの神通力が通用しなくなった。
ほんだシステムが全国に波及するようになって、世の中の経済構造にまで食い込むようになった。
旧来の武器で戦えなくなっただけである。
時代に取り残された人々の末路は見るも無惨。
弾圧派の政治家達は悉く立場を失い失脚するばかりで、オタクと対立していたようなスポーツウェイ系もまたその理不尽な暴力で支配することも出来なくなってしまったのである。
理不尽には科学で対抗すべきなのである。
そうしてヨットスクールみたいな理不尽暴力主義も段々と消えていくのである。
スパルタの象徴だった石原慎太郎も老いさらばえてしまい一気に権威すら失せてしまった。

人間は寿命というのがある。
肉体的な生命とも言うべき寿命のこともそうだが、現役でいられる寿命というのもある。
これまで理不尽にも支配していた層が時代と共に引退し始めて、オタク世代が逆に社会を牽引するところまで来てしまった。
オタク第一世代は既に還暦を超えてしまったが、宮崎勤の呪いを被った訳ではない。
呪いを被った世代が社会を動かす層にまでなったが、まだ自分達の番になったことに気づいていないようだ。
それも仕方なく旧世代が長生きし過ぎでまだ現役でいるからである。
皮肉にもエヴァンゲリオンが続いているのもそうしたことだろう。
オタクも歳を取ってしまったが、自分が今どの立場にいるかやっぱりそろそろ俯瞰して自覚する時が来たのではないかと思うのである。
セカイの殻をぶち破ってとは言うが、その殻は既に脆くて触れなくても崩れ去るのみだった。
雛のままどころか成長しきっていても気づかずに老いていくことさえもである。
結局、社会を変えていくのは若者であり後に生まれる子供達なのである。
「空の青さを知る人よ」もそうだったが、あれは高齢化したオタクが今度は老害になるという予見でもしたのではと感じる。
しかし、漸く出発し始めたのだと思う。
テレビも宮崎勤はただの人間だったと評した辺り、随分と時間が掛かったなと感じる。
余りにも長かった30年間である。

世界はどうなったっていいと言っても初めから自分達で社会を作っていくと思えばいいのである。

さて、その先の社会をどう描こうか。
天気の子
倍賞千恵子
2020-03-04


未来に何も遺すことも何も伝えることの出来なかった子供達

また、ブログを書く時間が過ぎてしまった。

2020年のオリンピックまでにとは言うが結局オリンピックそのものは新型コロナウイルスの蔓延で延期することとなった。

オリンピックのために会場を明け渡したコミケでさえも中止にせざるを得なくなって、結局勝負として捉えても誰も勝った者なんていなかった。

未知の?ウイルスは誰しも平等に襲いかかることが分かってしまった。

幾ら体を鍛え健康に努めようともウイルスは関係なく罹りにくる。

大人しくウイルスに罹ったまま死ぬか、これまでの活動をしたまま罹って死ぬか、どちらが人として生きるに相応しいだろうか。

ウイルスが確認されてから半年以上が経つ。

それまでに罹った人もいて中には重症化する人もいて、時にはそれで死ぬことだってある。

人間はどんなことで死ぬか分からない。

正直のところインフルエンザは毎年蔓延しておりワクチンやタミフルが出回ってもそれでも死ぬ人は後を絶たない。

本当にこの半年間はこれに翻弄された社会だなと感じる。

人々の活動を制限してウイルスの感染を物理的に抑えようとしていたのだが、結局それがなくても効果がないと言うことが分かってしまった。

なぜ、自粛を迫ったのだろう。

いっぱい罹って多くの人が死ぬからなのだろうか?

結果的に若い人に罹っても無症状で死者も然程出ないことも分かっていた。

老人でさえも無症状者は多くて流石に死者は若い人よりかは突出していても比率として死者はそんなに多くない。

治るし、恢復するし、結局大人しくしていれば「風邪」を撃退することが出来るのである。

今回のコロナウイルスには特効薬がなく今一度罹ったら不治の病みたいに扱われたが、そもそも風邪には特効薬というものがないのである。

風邪でさえも肺炎になる。

何故こうも社会が萎縮するような事態になったのだろうか?

結論は、実際に社会を動かす人々が恰も死に直結するものだと過剰に恐れて政府やマスコミを後押ししてしまったからである。

果たして、今回のことで一体何か得するものがあったのだろうか?

自粛を迫り、経済活動を抑え込んだら倒産する会社が多く出るのは当然。

既に倒産してしまった会社が続々と出始めている。

会社が倒産してしまえば自殺者も出て来てしまうというのは常である。

既に自殺してしまった人もいるようだ。

とんかつ屋の店主もそうだろうし、コロナ禍の影響で自死を選んでしまったプロレスラー、マンションから飛び降りた高校生とか、過剰反応のせいでしなくてもいい自死を選ぶ人が増えてくるだろう今後は。

まだ、それでも自粛をしろと叫ぶ人がいる。

何故?

いつまで?

ワクチンが開発されるまで?

ワクチンが開発されるまでにどのくらい待てばいいのだろうか?

一、二年も自粛をし続けるのか?

財産を持っているものなら開発されるまで待てるだろうが、それまでに日本経済が保つのだろうか?

こうなると最早、自分のためだけにしか生きてこないということが分かってしまうのである。

丸で蜘蛛の糸のカンダタ。

自分だけが生きていればいいというエゴイズムの塊。

この考え方を持つ人々のせいで多くの人が犠牲になる。

アメリカなんかもこの典型でお金持ちはさっさと隔離できて貧乏人は保険もないし基礎疾患だらけなのでコロナに罹った途端に重症化して多くの人が死んでしまっている状況となってしまったようである。

これを見る限り、新自由主義を体現しているのだなと感じる。
トランプ大統領が経済の立て直しに努める一方で、アメリカのメガ企業は簡単に労働者の馘を切り、株主達にせっせと優待をするという完全に背反するようなことをする。
公衆という観念が存在しない。
あるのはポリティカル・コレクトネスのみ。
自分のみが正しい価値観しかないというもの。

なんとか革命以前のキリスト教の世界そのものの価値観と被るが、いつまでも強者かつ支配者でいたい驕った考えなのだろう。

しかし、そんな世界第一位の感染者数と死者数を誇るアメリカでさえも経済の立て直しを考えている訳である。
日本はどうか。
政府は漸く抑圧政策の解除に踏み切り、経済の立て直しに前向きになろうとしている、にも拘らず相変わらずマスコミや支持率を維持したい自治体の長がこれ見よがしのパフォーマンスに邁進して逆戻りをしようとしている。

それだけでなく、肝腎の大衆がその抑圧政策を支持し、自粛を更に迫りついこの前まで学校の9月入学を推し進めようとしていたのである。

何を馬鹿なと思う。

子供のことではなくて、自分達特に高齢者が感染したくないからそのようなことを平然と言いのける。

子供達には卒業式もなく入学式もなく運動会もなく修学旅行もなく夏休みさえもない。

全て大人のエゴによって子供が振り回されている。

このことを、子供が大きくなって振り返りでもしたらどうなるか。

絶対に復讐されるに決まっているのだ。
子供は年寄りのために死ねと言っているようなものだ。
戦前戦中戦後と生きて来た先人達が子供や子孫のために身を粉にして来た筈なのに、その戦後に生まれた子供がこれからの日本の社会を担う子供や若者そして生まれてくる子供達のために身を削ることをしないで過去の遺産と未来の希望を食い潰そうとしているのである。
丸で万引き家族に出て来る駄目な大人達である。
そもそも万引き家族の真意を読み取れる人がどのくらいいるのだろうか。
いやしない。
それだけ戦後の空間で堕落してしまっているからである。

そして、これを書いている途中で冬のコミケの中止が決まってしまった。

混雑を防ぐ為にリストバンドの導入をし、日数を分散した筈だったが、それさえも無理だったか。

そもそも混雑を避けるとするのなら絶対にコミケなんかできっこない。

5月はエアコミケとしてネット上で開催されたが、今後はこうした形になっていくのだろう。

コミケもなくなった分、他のイベントもなくなっているので実質的にはみんな敗者。

しかし、ワクチン開発まで待つ必要もないし、律儀にびくついて守る必要もない。
コミケだけでなくゲームショウも及び腰になっているのはこれまでの世間からの心ない批判が染み込んでいるからなのだろうと思う。

宮崎勤はいなくなった訳だし、堂々としていればいいのである。
コミケは熱中症による死者を出したら一発で終わりだと思っているようだから尚更コミケで感染者が出ましたとなると世間からの批判に晒される形になるのだろう。
しかし、ソーシャルディスタンス守ろうが叩く奴は叩く。
長らく権力や世間に配慮しながら生きてきたのでスティグマが出来上がっているようにも思える。

指定感染症から外れれば問題ないのだが。

誰が弱いものいじめをするのか Part16 叛逆と抵抗その3 未来への希望

今年もあと僅か。

このブログも正直更新頻度が少なくなってしまった。

10年代も終わり愈々オリンピックイヤーとなる。

元々2020年のオリンピックによって潰されるのではと懸念されたものが、ギリギリのところで抵抗を続け何とかして堪えたことで取り敢えずは生き残ることが出来たのである。

やはり、投票行動は大きい。

東京都青少年健全育成条例の改正もまたオリンピックを目指したおためごかしだったのだが、抵抗を続けることで尊厳を守られた形になったと思う。
正直、この条例の改正案そのまま通ることが文字通り「やばかった」のである。

憲法で定められた表現の自由どころか憲法の形、立憲主義や血を流して築き上げた近代国家の約束事そのものを投げ捨ててしまいかねない条例をそのまんま丸呑みする形で通す訳にはいかないという危機感を抱いた。

この国を、カルト宗教の思い通りにさせてたまるかと。

危機感を抱いた人達は情報を蒐集して、議員達と連繫を取りながら表現の自由を何とかして守ろうとしたのである。

結局通ってしまったが附帯決議で権力の蹂躙を禦ぐことが約束された。

その後、山田太郎が参議院選挙に立候補したものの29万票を得ても落選してしまったがその票の大きさが都知事候補や所謂表現規制派の現職国会議員が黙りこくようになってしまった。

その3年後の参議院選挙では54万票を獲得して当選したことで遂に表現規制を標榜する政治家達は表向きいなくなってしまったのである。
それどころか規制派が悉く落選する様はこの世の中の流れが完全に変わったことを如実に表している。

宮﨑勤がただの人間だったことを知らせる再現ドラマが放送されたり、オタクが実質勝利するような映画ばかり作られるようになったりと、ここ20〜30年前と違って目紛しい変化を来すようになった。

単純に、オタク世帯のボリュームゾーンが大きくなったことなのだが、世の中の中心になりつつあったことも影響している。

国家権力による管理は今のところ防げているのだが、時代の流れについていけない人々が表現規制を叫ぶようになってしまった。
このことに関してはまた別の機会とするが、取り敢えずは一安心。

さて、今回の本題はちょくちょく取り上げているAV女優のかさいあみのことについてである。

かさいあみは本来なら今年で引退をするつもりだったのだが、ある日妊娠が発覚したことで延期となってしまった。
子供は堕さずに産むことを決めたという。

今思えば、何故だろうと思った。
AVの撮影中に妊娠してしまったという例は恐らくこの今まであったかも知れない。
妊娠は避妊を徹底的に努めてもするという。
かさいあみはその少ない確率でも当たってしまった。

こういう例はあったかも知れないが誰にも気付かれずに堕していたりしていたのだろう。
際物AVの中には妊婦でもAVを撮影して作品にするのもあるが、ああ言った場合も産むことを決意したりするのだろうか。

かさいあみは四日間の難産を極め、普通分娩から帝王切開に切り替えた。
お腹に傷が残ることを懸念していたという。
もしもAVに復帰した時に傷が目立ってしまうことへの懸念のようである。

そのお腹の傷があった人が出ている作品は実は存在している。
そうした人達が出ているのを知ると「ああ苦労したのだな」と思う。

AV女優が引退して結婚して子供を産むケースは存在する。
とは言うものの、AV女優自体が特殊な職業故に「普通の生活」を送ることは難しいという。
身バレしたり、別の職業に就いたりする事が中々難しいようであってまた復帰することもあると言う。

それで日本にいられることもなく外国で暮らすこともあるという。

AV女優がやくざよりも人口が多くてデビューしても精々2、3年くらいの期間を経て引退することが多い。
デビューしても次から次へと出て来て押し出されて忘れ去られるだけなのだが、そうしたネックを克服するためにAV女優達が自分の作品を消して欲しいと願ったら消えるようになったシステムも作られた。

AV女優であってもここ最近は公に結婚することもあり子供も授かることも珍しくはなくなった。

そう、AVもまた環境が変わり人々の意識も変わりつつある。

ただ、かさいあみのこの発表はほぼ前例がないらしい。
引退を決意するといっても肩書きはAV女優のままである。
川奈まりこや蒼井そらや板垣あずさはAV女優を辞めてからの結婚と出産なのでこの例からは漏れる。
※蒼井そらはAV女優を辞めたとは言ってないらしい

AVって基本的に本番をしていなくて「演技」であることが建前である。
このモザイクがそれを証明させている。
モザイクだから本番をしているとは限らないので少なくとも妊娠をするような状態ではないということを証明する。

しかし、かさいあみは妊娠をした。
となるとこの建前の原則が崩れる。

もしかしたら、後から出てくるAV女優の為に警告を出しているのかも知れない。
本当はこうしたリスクもあることだということを言いたかったのではと勘繰ってしまう。
避妊を徹底しているから安全だ、モザイクだから本番はない、そう言った建前は実は存在していないのである。

ここ最近のAVを取り巻く環境も変わっている。
AVもボクシングや相撲と同じくヒエラルキーの社会である。
売れない人は10万円程度にしかならない。
買う人や観る人が余りにも少ない。
違法視聴も蔓延っているのだが、若い人が先ずAVを観ない。
ファンの集いも中高年ばかり。

※実はソープランドもそんなに売れてないので風俗も同じてある。

AVやったって食える訳でもなく寿命も短い割にはいつまでも残ってしまうメリットの少ないジャンルなのにそれでもなる人が多いから一定のストッパーをかける必要があるのではと思ったりもする。

かさいあみは10年も続いていたという。
2、3年の命しかないAV女優業なのに3倍以上伸びるのは単純に凄い。
AVやりながらフリー女優連盟作ったりと結構苦労を重ねていると思う。
AV辞めてもこの連盟は続けるらしい。

結局、AV強要という言いがかりで囲い込みが始まり、事務所に所属していないAV女優が弾かれるのではないかという懸念から発足した連盟ではあったが、今後はどうなることだろう。

考えてみればこのAV強要という話も、AV女優の自己決定権を無視した言い掛かりだったと感じる。

都条例の件で失敗したからAVに焦点を当てただけだった。
世間的に責められる素材だったから付け入れられてしまった。

結局自主規制が強くなりまたも息苦しい社会もなってしまった。

AVも観る筈もなくAV女優の日常生活を支えることもなく男社会が憎く居場所と共感を得たいただそれだけで潰そうとする人達が目立った。

AV自体が斜陽なのでこのままいけば消え失せてしまう文化となるのだろう。
それは残念でならない。

誰が弱いものいじめをするのか Part15 叛逆と抵抗その2 戦うことを諦めた人々

このブログサイトを作ってから5年半が経つ、と言った感想だろうか。

この5年半もだけど色々と世の中が変わったようにも思える。

都知事は2回変わった。

舛添要一になったら表現規制に拍車がかかるとは書いていたが、そんなことはなかった。

というよりも舛添のケチケチで都民から嫌われて辞めざるを得なくなってしまったからである。

都知事選の前に参議院選挙があってその時ではあるが山田太郎が落選はしたものの29万票を取得したので当選した小池百合子東京都知事はアニメランドを作るとか突拍子もない事を言ったが結局表現規制に掛かるようなことは終ぞ言わなかった。

流れが一気に変わったとは思ったが、国内での権力による表現規制は鳴りを潜め、所謂国内での戦いは終わったのである。

ただこれは別の話ではあるが、民間による表現規制や外国勢による表現規制はいまだに猛威を振るっている、どころか益々その勢いは増していると言ってもいいだろう。

これをどう防ぐかにもよるが、国民自体に教育が必要としか言いようが無い。

国家権力による表現規制の嵐は終結したのだが、それでもまだ残っている。

塀の中での平和を謳歌したいのならこれ以上の戦いは不要だろう。

でも、そこから目を背いていては結局権力の言いなりのままである。

刑法175条をどうするかである。

社会通念や公共の福祉を掲げて表現の自由を侵すのである。

憲法に介入しようとするのなら、法的根拠を示さねばならないのに、というよりもそれに適った法律を新たに作るべきなのに昔の判例で済まそうとして国家権力がどんどんと表現に介入しているのである。

これは怠惰であり堕落であり、権力が腐敗している証拠である。

これを打ち破るにはどうするかである。

民間ファシストらがコンビニから成人向け雑誌の追放に躍起になるのならそれこそモザイクなんかいらないだろうが、それでもモザイクが存在する。

一体何のためのわいせつの罪か。

モザイクがあるからわいせつではない、と言う根拠は何なのか。

モザイクがあったって摘発するではないか。

国家権力の胸先三寸で判断が左右されるのだ。

これほど恣意的なものはない。

何がわいせつかは国家権力が決めるという判断である。

突き詰めれば文化を国家権力によって判断されるのである。

何が良い文化か何が悪い文化かは国家権力が決めると言うところまで行き着く。

実際にそう動いているし一元的な決め付けがこの国の活力を殺ぐ。

クールジャパンと言いながら結局は明治の薩長閥が作った内務省の流れを汲んだ警察権力による統制で締め付けられるだけである。

実際これもそのように動いている。

と言うよりも実際そう動いていたと確認が取れるところがあった。

GHQによって一度は解体された内務省が省庁再編で総務省として復活を遂げたのである。通信事業も掌握しているのでその力は内務省程ではないが強いと確信が持てる。

東京都青少年健全育成条例も結局はこれは罰則規定なので警察主導の仕事を増やすだけだった。

インターネットやバーチャル表現から子供を守るとか、つまり早い話パターナリズム全面に押し出した条例を敷こうとしていたので青少年だけでなく結局国民を統御したいだけの話だった。

この背景にはカルト団体のロビー活動もあって自分達への批判を躱すか自分達の主義主張に沿うように仕向けさせてもいた。

多様な価値観において自分たちの主張や教義が通りにくいというのは致命的である。

それならば国家全体に敷き詰めようとすればいいではないかと考えるのがカルトの発想である。

10年前は与野党逆転して民主党が与党となっていた。

カルトが肩入れしていた与党が逆転したのだからそれは焦るだろう。

カルトが道徳を盾に脅しを掛けてきたのである。

皮肉にも新しい歴史教科書をつくる会がカルトに乗っ取られてしまいあらゆるメディアもカルトに乗っ取られ攻勢は不利になっていたのである。

道徳とか世間を盾や棍棒にして襲いかかったのである。

それが10年前だった。

結局都条例は押し切られたが、附帯決議でもって権力の暴走に楔を打ち込んだ。
本当はこんなことはあってはならないのだが、これが後に響く。

都条例の影響は書店に及ぶのだが、区分陳列の出来ない本は排除される。
BL本とかが摘発の対象になるのだがBL本が一向に改善されない。
と言うよりも改善出来ない。
区分陳列をすると本が買えない人が明らかに多くなる。
これこそがゾーニングの真の狙い。
パターナリズムに侵食された人が相変わらず多くてゾーニングの場所に行けないのである。

端的に言うと、女子はふしだらであってはならないという徹底された教育の賜物である。
本当は男子並みに性欲はあるのだが、女子は自分の身を守らせる為に親や周りの大人から徹底的に教育される。
初めから護身術を身に着けさせる。
護身術だけでなく障碍となるようなものを排除させる行為に出る。
当然それは男に性欲を削がさせるようなことを運動としてやらせる。
これが最近の流れ。
形を変えたパターナリズムではある。

少し前までそんな動きはなかったのにとは思うが、何故最近になってだろうとは思うが、結論から言うとツイッターの普及である。
10年前は本当にそんなことはなかった。
寧ろ女子の性欲だとか社会進出だとか肯定されていたのだが、逆戻りしてしまったように感じる。

社会進出したら辛かったという気持ちが出て来たのだろう。
誰もその気持ちを癒してはくれないし、共感してくれる者は誰もいない。
2chは完全匿名なので自分の気持ちを代弁させるツールにはならなかった。
自分の気持ちを押し出したら闇落ちして荒らしとなってスレや板を荒らしまくるので結局2chは孤立化した者に対して何ら救いにさえならなかったのである。

逆にツイッターは完全個人で共感は広がり易いから相手に合わせていく必要はなくなる。

個人の気持ちで変えたことの成功例はここ最近増えている。
広告とかは個人の不快感を示せば取り下げてくれるので益々エスカレートしていく。

ただこれは政治的な行動に繋がるかと言えばそうはならない。
しかし、最近と言えば政治的なものをアピールしようとして返り討ちに遭い潰されてしまうことがあった。
あいちトリエンナーレの表現の不自由展その後の企画展であった。
今まで政治的カウンターの主張で押し通すことが出来た筈なのに、同じ反撃に遭ってしまうのはその武器が諸刃の剣だったのである。

個人の気持ちが大きな個人達の気持ちに押しやられてしまった訳である。

表現の自由はこうした個人達の諍いには関与出来ない。

これについては別の項目で後述する。

しかし、戦うことを諦める人が増えた。
戦うことは力が要る。
力なき者は大いなる力に縋ることで安心感を得られるのだろう。
権力を手にせず、権利を放棄して、安心安全な生活を選ぶ。
江戸時代に戻ってしまった。
国民主権を抛げ棄ててしまったのである。
投票率も今回の参議院選挙では半分以上が行かなかった。
お上に任せればいいと思っている人が残念ながら多い。

でも、オタク達は人任せにしたら自分の生前権が脅かされるので3年前から動き始めたのである。

元々オタク達は政治に無関心で権力者に壟断されて来た過去があるから危機を抱き投票行動に出たのである。
たった一人ではあったが、賛同者も多くて心強い。

戦いは未だ諦めない。

権利は戦って得られるものだからだ。

共通良識は多数派の情緒、諸行無常、朝聞道夕死可矣、民可使由之不可使知之、倉廩實則知禮節衣食足則知榮辱、井蛙が良。 新居昭乃、宮澤賢治、本田透、英霊の声、蜘蛛の糸、まどか、まほろ、Fate、みなとそふと系、MATRIX、ドラえもん、ジブリ、エヴァ、マサル、アンパンマン、北斗の拳、夜勤病棟、君の名は。美術館と格闘技が好き。
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