とは言いつつも、既にやって来たことだとは思うが、新年に地上波初放送だったのでそれに合わせていくつか簡単に感想を考えてみる。
ゼロ年代のセカイ系が流行った背景は改めて言うまでもないがエヴァンゲリオンが纏められずに投げっぱなしとなってしまったことに因る。
それ以来、数多のオタク系作品はそうした所謂「セカイ系」を題材としたテーマを掲げて闇夜を迷うオタク達に燈を与え照らして来た。
と、まあこんな風に時代背景を言ってしまえばこんな感じだろう。
オタクじゃなければこんな世界観なんてなんじゃらほいである。
しかし君の名は。が超ヒットしてその続編(なんだよ)の天気の子もなかなかのヒットを飛ばして、広く一般的にも「セカイ系」の片鱗に触れることが出来たであろう。
意識高い系とは違うけど、別次元の話とも思う。
現実逃避のセカイ系が流行った理由としてはやっぱりオウム真理教の存在を語らずにはいられない。
80年代だったらもう一つの解釈されたセカイ、オルタナティブとまあ言うべきか、エリートが挙って没頭したカルト教団のオウム真理教が席捲していた。
とは言っても現実的には泡沫も泡沫で政治の世界には掠りにもしなかったのである。
幻想が現実を食い破ることなんて叶わなかったからその現実をぶち壊そうとしたのがオウム真理教だった。
豊かで、恵まれた社会に生まれた筈なのに生き甲斐ややり甲斐すらも感じずに狭隘な自己を認めてくれる小さな小さなセカイに埋没してしまう若者やエリートが少なくなかった。
これよりも前には社会主義革命に幻想を抱いたエリートや青年達が挙って暴力革命に乗り出そうとして数々の事件を起こしたこともあった。
どれも結局叶うこともなく、現抜かした人々は諦め、社会に向き合うことにした。
どれも共通して捉えるのは、若者の無知と暴走とも言えるだろうが、そうした暴走する若者に対しても同情を抱き理解者のつもりでいる大人が少なからず存在した。
そう言った大人達も嘗ては革命に恋焦がれて夢半ば諦めてもそうした同じようなことを繰り返す若者にシンパシーを感じているだけだった。
そうした大人達の所為で中々暴走する若者達を検証することができなくなっているようにも感じる。
革命ごっこをやっているのが年寄りばかりで若者がそれにあまり興味を持ってなさそうなのが、側から見ると体制側に飼い慣らされているようにも見えるが、初めから豊かであればわざわざ反撥することもないだろう。
選択肢と多様性があれば若者はどこへでも行ける。
斯くして、社会を引っ繰り返そうと思う若者はいなくなった。
それは幸福だと思う。
一番幸福な時代に生まれた後世の人々は、障壁を感じずに生きていけると思う。
新海誠は天気の子以前の作品でも身分違いの恋の時代ではない故に離れ離れになる恋人達を描いて来た。
時代や身分違いという障壁があってこそ悲劇とかが生まれたのだが、今はそんなものがない。
あとは容姿とか能力とかそんなのだろう。
ほしのこえ、秒速、雲の向こう、言の葉、プレ君の名は。と言える作品はどれもヒロイン(恋焦がれる人)に会えぬもどかしさを描いて来たが、これに共感するのはやっぱり豊かな時代に生まれたオタク達で彼らの悲哀こそであるとでも言えるのだろう。
オタク達が悲しみを背負わなければならなくなった理由の一つとして散々挙げて来たが宮崎勤の事件がある。
時代的にはオウム真理教が勢力を伸ばした頃とほぼ重なるが、オウムが崩壊してエリート崩れの行き着く先がなくなったところで漸く見つけたのがエヴァンゲリオンだったのだが、片や宮崎勤の事件でこれまで平穏無事だったオタクにも風評被害が及んで立つ瀬もなくなったところに降りて来たのが同じくエヴァだったのだが、テレビシリーズは奇々怪々なストーリーで終わり、その数年後の旧劇でもメタ批評をしてしまい視聴者を置いてけぼりにしてしまったことで再び「彼ら」は道すがら迷うこととなってしまうのである。
こうした話は本田透の「電波男」などの著作に詳しいのでこれ以上は省くが、その後に泣きゲーも大流行し始めた。
結局、一般市民の間でもパソコンが買える時代になってソフトもプレイ出来るという豊かな時代に生まれた子供達でしかなかったのだが、オタク達は自己解釈のセカイに没頭するのであった。
だが、既に説明した通りそんなことが許される時代でもなくなってしまった。
オタクが世間と無関係に生きようとしても世間が許す筈もなく、その魔の手はじわりじわりと侵食し始めていたのである。
90年代の有害コミック排斥運動からほぼ20年後に東京都が青少年健全育成条例を改正するという動きが出始めた。
それもその筈で、オタク達は一切合切社会と関わりを持とうともしなかったから政治の世界で何が起きているか理解も出来なかった。
権力に飼い慣らされて大人しくした方がよいという判断を今まで選んでいたら一気に追い詰められてしまった。
子供達が宮崎勤みたいになるという妄想を根拠に「この国の大人達」がオタクを生贄にして子供や若者を支配しようと企み始めた。
何度も繰り返して言うが、オタク達がどうなろうと知ったこっちゃなかったが、この条例を通したら日本は法治国家を自ら否定することになると危惧した。
別段エロくもない絵を持ったりするだけで条例違反となってしまえば、これは法の下の平等に背くのではと感じるようになった。
オタクであると言う属性で犯罪者のレッテルを貼るとなると正に近代法治国家、民主主義国家の否定に繋がるとそう感じた。
都だけでなく全国での反対運動が起こり、結局は都条例が通るのだがオタク達は政治家を送り込むことを決意する。
初めて、30年来でオタク達が団結したとも言える。
時代は変わった。
都条例騒動から10年以上経ったが、政府や国家による露骨な表現弾圧はなくなった。
オタク達の勝利で間違いないのだが、現実的には少子化高齢化や成熟社会や通信網の発達のお蔭で旧来の方法論が丸で通用しなくなったというものがある。
間違いなくオタク弾圧に手を貸していたのがマスコミだったのだがそのマスコミそのものがネットのツールによって逆に批判に晒されるようになってしまった。
マスコミの神通力が通用しなくなった。
ほんだシステムが全国に波及するようになって、世の中の経済構造にまで食い込むようになった。
旧来の武器で戦えなくなっただけである。
時代に取り残された人々の末路は見るも無惨。
弾圧派の政治家達は悉く立場を失い失脚するばかりで、オタクと対立していたようなスポーツウェイ系もまたその理不尽な暴力で支配することも出来なくなってしまったのである。
理不尽には科学で対抗すべきなのである。
そうしてヨットスクールみたいな理不尽暴力主義も段々と消えていくのである。
スパルタの象徴だった石原慎太郎も老いさらばえてしまい一気に権威すら失せてしまった。
人間は寿命というのがある。
肉体的な生命とも言うべき寿命のこともそうだが、現役でいられる寿命というのもある。
これまで理不尽にも支配していた層が時代と共に引退し始めて、オタク世代が逆に社会を牽引するところまで来てしまった。
オタク第一世代は既に還暦を超えてしまったが、宮崎勤の呪いを被った訳ではない。
呪いを被った世代が社会を動かす層にまでなったが、まだ自分達の番になったことに気づいていないようだ。
それも仕方なく旧世代が長生きし過ぎでまだ現役でいるからである。
皮肉にもエヴァンゲリオンが続いているのもそうしたことだろう。
オタクも歳を取ってしまったが、自分が今どの立場にいるかやっぱりそろそろ俯瞰して自覚する時が来たのではないかと思うのである。
セカイの殻をぶち破ってとは言うが、その殻は既に脆くて触れなくても崩れ去るのみだった。
雛のままどころか成長しきっていても気づかずに老いていくことさえもである。
結局、社会を変えていくのは若者であり後に生まれる子供達なのである。
「空の青さを知る人よ」もそうだったが、あれは高齢化したオタクが今度は老害になるという予見でもしたのではと感じる。
しかし、漸く出発し始めたのだと思う。
テレビも宮崎勤はただの人間だったと評した辺り、随分と時間が掛かったなと感じる。
余りにも長かった30年間である。
世界はどうなったっていいと言っても初めから自分達で社会を作っていくと思えばいいのである。
さて、その先の社会をどう描こうか。