私は、このブログの内容をオタク迫害のために書いている訳ではない。

どうも腑に落ちないことが、ある。

Twitterとか見てみると、一部だが、本当に一部だが、迫害されていると思い込んでいる人がいるようである。

何でだろうか?

野間易通が艦これを気持ち悪いとか侮蔑発言したことで炎上したことに因むか、まあそれもあるんだが野間の件については別にする。

少し前にファミ通で連載されていた四姉妹(しとらす)という漫画でこんな描写があった。

粗筋は割愛するが、主人公が就職や将来のためにこれまで嗜んで来た趣味のゲームを封印して一般人になろうとする回があった。

この時点でオタクと一般人を分けることが既に指摘しておかねばならない描写なのだが、話は進んで、主人公が知り合ったとある一般女性とデートすることになったのだが、これが所謂ステロタイプなスイーツ(笑)女子で主人公とは趣味や感性の点でそりが合わないことがデートをする内で明らかになる。

主人公はオタク趣味(ゲーム) と訣別して一般社会に溶け込む勢いでいた所、そういうデートした相手の反応で冷めて、元の四姉妹達とゲーム三昧にシケ込む事を最終的に決める話で終わる。

 よく読めばこの話が変なのは分かり切ったことなのだが、果たしてこれはめでたい話なのだろうかと思う。

現状は変わらない方がいい。

話はそう言う風なハッピーエンドであった方が良い。
 
でもそれでは拙い。

何故、主人公は一般女性(笑)にゲームの素晴らしさを説かなかったのだろうか?

これでは尻窄みになる事は間違いないのである。

抑も、ゲーマーだろうとオタクだろうと一般人じゃないのか?

この漫画の描写が現在のゲーム業界の現状を表したものだと思う。

今、日本ではゲームが売れないのである。

任天堂は新機種出しても売れない。

帝国とまで言わしめた時代も最早過去の話。

もう皆ゲームをやり込む暇などないのだ。

据え置きゲームが売れない。

ソニーがゲーム機を家電としたのはある種正解だった。

任天堂もゲーム機をファミリー向けに作ったのも戦略として間違いない。

だがそれでも、ソニーも任天堂も携帯ゲーム(DSやVitaちゃん) に力入れてるのも、日本人が家にいない現状を見越しての事である。

ライフスタイルが変わった。

そして、最早難しくやり込めるゲームすらもやらなくなってしまった。

難しいから手が出せない、などではない。

やる隙がないのだ。

暇と言っても、通勤電車の中くらいだろう。

九時五時定時で勤まると思うか?

一日皆16時間位働いているんじゃないのか?

その上、少子化だからゲームが売れない。

自然とケータイ・スマホのアプリゲームにシフトしていくものだろう。

ソニーはVAIOを売ってしまったが、自社のスマホに力を入れる道は残されている。
それならまだ救いはあるが、任天堂はケータイ事業には手を出していない。 

外出する時に、ケータイとDSを二つ同時に持ち歩く面倒な奴はいるのか?

いない。

そうやって趣味が限定的なものとなり、嘗てやり込んでいたものを手放していくものである。

オタクは、自然と卒業するものだ。

悲しいかなこれが現実だ。

だから大人が自分の子供や周りの子供に懐かしげに昔遊んだ趣味を語るのである。

オタクをやっていられるのは、時間の配分が可能なエリートかそれとも人付き合いがなく趣味に没頭していられる時間を設けていられる者か、あるいは時間が限りなく存在する無職者かのどちらかである。

エリートオタクは現実にもいる。
そして大方の人は他人に割いていられる時間を作らない人達であろう。 

それでなんで差別とか迫害とかを感じるのだろう?

宮崎勤の事件の時程ではない筈である。

話が合わなくなる、と言う事が問題なのではないのか?

これは何もオタクのせいではない。

よくあることだが、論壇トークに埋没してそのエリアでしか通用しない言葉を吐き続けて新規参入者を阻むことがある。

プロレスとか格闘技とかによくあることだ。

プロレスが尻窄みになっていったのは、コアなファン(プヲタ)がニワカモンを追い出したからだ。

この漫画、しとらすもそう言うような描写で締めくくってしまって残念である。

ソニーは据え置きゲームをそう言うコア向けに作っていくと言う選択を取った。

これ、嘗てセガがそういうことをやってハードから撤退してったのだが、そういうのは気付いているのかな?