ごっこ遊びに興じているだけじゃないかと思うのだが。
ラブコメに有り勝ちな恋の駆け引き、と言うのはここにはなかった。
要するに、恋路を阻むものって現代社会では存在しないんだもん。
あったとしても、それは時間的な都合とかに過ぎない訳で、世の中は随分と優しくなったなと思う。
しょこたんが自らの恋を終わらせたようなことがあったが、あれもよくよく考えて見れば純愛を阻むものじゃなくて、活動をするためには捨てねばならないものがあるから、そうせざるを得ないのである。
誰もしょこたんを可愛そうだとか相手がアレだとか思ってはいなかったろうか。
お互いそういうのが分かっていても、純愛すら突き通すことは無理だったんじゃないのか?
元あったものに対しても、今後そういうのがあとを引くのは判っているからである。
だから、純愛が曇ってしまう。
誰がそういうのを植えつけたんだろうねえと思う。
いろんな形があっても良いんじゃないかと思う。
でも純愛を取りたかったのかね?
しかし、それは不可能に近かったんじゃないのかと。
話は逸れたが、この中二病も過去主人公(富樫勇太)と懇意にあった者(七宮智音)が久しく会うことによって恋心が芽生えるというまたこれも少年漫画のパターンを踏んでしまっているのがなんとも。
恋の形も多様性があってもいいと思うのだが、駄目だよなあと思う。
やってることが純愛を追い求めてるだけだもん。
これじゃあ人は更に苦しまねばならなくなる。
でも理想が漫画の中にあったっていいと思うが現実はそうは行かないもんなあ。
北斗の拳のカイオウなんか自分の中には愛は全くないと言ってる辺りがもうパンク過ぎて凄いというかなんというか。
当時ラブコメ全盛の中でアレをぶっちゃけるカイオウとあの漫画は相当勇気のある発言だったんじゃないかと思う。
何もラブコメが全てではなかったんだから。
んで、七宮智音が最終的に別れを告げて綺麗さっぱりと良き関係となるというのが、このアニメでの救いかなと思う。
本当はこう言う残念な人が我々の心を砕くのではなかろうかと思う。
まほろまてぃっくで言うところのちづ(大江千鶴子)である。
真のヒロインとは愛に絆されるのである。
主人公とは過去より深い絆はあろうが主人公の理想とは足り得ず、理想に負けてしまうのが現実のヒロイン達である。
あれ、なんでいつもこう言うパターンなんだ?
要するに、身近に己のヒロインはいるのだから現実と妥協しろと言いたいのか?