これは何時の時代、どこの場所でも限ったことではなく、常に行われてきた。
支配者が統治の理論を振り翳す時に用いるのが道徳である。
被支配層が秩序を維持することは当然という振る舞いを振る舞わせるのである。
現代、近代だったらそれは法律でもって人を支配することが決められた。
それは当然で、マンパワーを動員するためには人を多く、そして国民を作らねばならなかった必然性があったからである。
前近代は国民なんて存在しなかった。
多く土地を所有し人を契約で支配し、掟で秩序を維持して来た。
急激な近代化に因ってついて行けない人々の為に移行措置が取られていた。
明治期における華族及び士族制度だろう。
所謂平民にも苗字が名乗れるようになって、これまで特権を享受してきた階層の者が没落し、政府に時として逆らい始めたりして来た。
今思えば、ものすごく馬鹿馬鹿しい叛乱である。
西南戦争は別としても自分達の特権がなくなって近代化を推し進める政府に叛乱をしていただけなのだ。
この頃の明治政府は今で言うところのアジアや中東やアフリカ諸国みたいなものだろう。
政府の機能もそれ程強い訳でもなく、強権を揮わなければ自分達が押し潰されてしまうからである。
明治大正昭和を経て各階層の者達の特権を剥がし、国民を醸成させて来たが、政府は家の事までは介入出来なかった。
家の中での決まり事が江戸時代から明治、昭和を経て平成がこれから30年になろうとしていても『家の中の決まり事』が消滅することはなかった。
家はプライベートの事でこれ自体誰しもが口に出せるものではないと皆が思っている。
実は、昨今の話題になっている児童虐待もこの『家の中の決まり事』に由来するものである。
一家心中がなくならないのも国民が社会の構成員であると同時に『家族の構成員』でもある。
親から貰った体と言う言い方は、子供は親の所有物という概念である。
子供に習い事を強制させたりいまだに婚礼に介入したり就職を決めたりするのもその名残である。
只管自己責任自己実現自己決定権が叫ばれ続けるのもそうした150年もの間に残る因襲の排除だろう。
この戦後70余年、端から見れば女権拡大に見えるだろう。
表向きの差別が解消されても力の差で遠く及ばないこともある。
それ故に負け惜しみのように高い下駄を履かせろみたいな意見も出て来る。
流石に、国は政府は機会の平等の原則を取っているので、一部国民に特権を与えるようなことは出来ない。
高い下駄を履かせると同時に、力あるものの力を制限するという話である。
時として陳情をして色々働きかけようとしている。
生まれながらにして特権を持っている状態、制度や財産を引き継いでいるような人を持たざる者が批難する権利を有し制度を是正させることの出来る権利を『権力勾配』や『非対称』というらしい。
これは『奴隷道徳』そのものなのだが、権利を獲得しようとする人は大体権力志向である。
現在、制度的な差別は一見解消された、かに見えた。
だが、そういう訳でもない。
男女共同参画並びに男女雇用機会均等法が成立されても、それでも力の及ばない人達がいる。
況してや新自由主義に突入してしまったのだから不遇であることは自己責任である事他ならないのだが、それでも制度的な差別があると信じている人々がいる。
幾度と無く何度も何度も問題として取り上げ、企業は外圧に曝されながらも是正しようとして来た。
男が特権を独占し正業に就けない女は賤業に就かざるを得なくなり男の慰みものにされていると言う価値観。
実はこれがそう思っている人々が共有している価値観である。
さて、その賤業と言う価値観はどこから来るか、これも実は前近代の価値観そのものである。
2chには嫌儲と言う言葉がある。
文字通り儲けること稼ぎまくることを嫌う言葉である。
企業が儲けることが気に入らない、有名人が稼ぐことを嫌う、自分たちのお金が奪われているという感覚である。
商売が長らく賤業と思われたのは努力しないで利鞘を得るという事を嫌う頑迷固陋な価値観から来るのだったのだが、流通がどのようにして成り立っていったのかさえ分からないのである。
道路建設や鉄道建設が如何に重要なのかさえ理解しようとしないのもこうした流通、商売そのものを否定する価値観が横たわっているからである。
江戸時代、商売人が身分の下層に置かれていても実際は武士を圧倒して時には金で身分を買ってしまうこともあった。
流通が整備されると飛躍的に発展するのである。
しかし、見た目ではよく分からない。
この見た目ではよく分からない職業で利益を得る、形に残らないもので利益を得る事への忌避感はいまだに残るのである。
サービス業もそれの一つである。
所謂、売春も形には残らないものである。
前近代ではそれが根強く残っていて差別されて可哀想であると同時に、こんな職業に身を窶すなんて可哀想という職業差別的な感覚が表れたりもした。
時が流れて一見意識が変わったように思えても、根底の部分では残っていたりする。
差別心を持つことは、自分達の立場を温存させるための感情の一つである。
ある意味、自分達の立場を満足させるために差別的感情が残されているのかも知れない。
何故、差別を否定しながらも差別心を肯定するに至る感情を持つのか、次回にまた考えようと思う。