また半年振りの記事となってしまった。

我乍らの出不精加減には辟易する。

年末になって漸くとなったが、このブログタイトルもそうだったがオリンピックのためにオタク・サブカルの文化が潰されてしまうのではないかというきっかけから始まった。

10年前に都条例が改正されて愈々危うくなったかと思ったが、社会は思いも寄らぬ方向へと進んだ。

政治的には参議院議員の山田太郎が郵便票に続いて多くの得票数で当選することが出来、権力者側による表現規制の脅威が取り敢えず無くなった。





ここでは語弊があるが、有権者は常に権力を監視せねばならないので引き続きそこは注視すべきであろう。

実は山田太郎は4年前の選挙では落選していたのだが、その当時ではかなりの多くの得票数だったので流石に世の中がびびり、マスコミや敵対する文化や階層や商売人、警察や政治家までもが顔色を変えて掌返しをしてしまい、オタク・サブカル文化への理不尽な攻撃がすっかりと止んでしまったのであった。

他の国会議員や地方議員も賛同者が増えて来て政治的にはすっかりと勝ってしまった。

とは言っても、実は政治的に勝っても自己実現の出来ない人々がいまだ存在して、一抜けたと思われたオタク・サブカル文化への飽くなき憎悪を繰り返す人がここ最近になってぽつぽつと現れて来た。
現実的な政治的影響力は殆どないがこれを頼みにする政治家が現れないとは限らない。

それは扨措、長くなったが本題。

オリンピックはやるつもりだったがコロナで中止となった。

この2020年は色々なことがあった。

シン・エヴァンゲリオンも今年やるつもりだったがこれも来年に延期。

鬼滅の刃の劇場版が千と千尋の神隠しを抜いて興収一位となった。

パターナリズムの回帰とも目される漫画が超ヒットする世の中で、この30年間の価値観もすっかり変わったと思う。

寧ろパターナリズムを捨てて自立することが大人としての条件を揃えたのではないかと感じる。

去年のヒット作である天気の子がゼロ年代のセカイ系を終わらせたという評価があったが、これも政治的勝利の必然だったと言えよう。


天気の子
倍賞千恵子
2020-03-04



新劇場版エヴァンゲリオンもこの流れで、セカイの壁をぶち破ることで自ら生きる道を選ぶと言う話であった。

新劇場版の前のTV版と旧劇はセカイと自分を切り離して自分が納得するセカイで漫ろに滅ぶということを選択してしまったが、それが最終的にはバッドエンドだったので抛り投げられた人々は自分達で納得するようなセカイを築こうと努めて来た。

それが今回のサブタイトルにもあるような泣きゲー、鍵ゲーの出発点となったようである。

麻枝准の描くシナリオの「神様になった日」はそのセカイ系を終わらせる物語として放映された。



全12話で日常から一転して急展開過ぎるシナリオで戸惑う人々もいたようだが、自分としてはあの構成で十分だと感じた。

話は短くないのである。

原点回帰というくらいだから話は代表作であるAIRから続けば長い長い話だと思えばいい。


AIR - PS Vita
プロトタイプ
2016-09-08



話の内容もAIRぽいが神様になった日はヒロインを救い出した真のエンディングという感じだろう。





試行錯誤して失敗を繰り返し、挫折しても生きていくということを選んだのである。

漸くスタートラインに立てた。

普通の人にとって何気ないことが30年前の抑圧を受けた人々にとって物凄く高く分厚い壁だった。

思えば長い道のりであった。

エヴァの登場で現実から逃げても生きていけるということから始まり、電車男でオタクでもモテることができると分かるようになり、少子化と不況の中でも消費が一定だと知ることが出来て目の色が変化するようになり、政治的にも勝つことが出来るようになっていった。

経済的にも文化的にもこれが基本となってしまったので他の勢力に取って代わられることはないだろう。

独り善がり、自己完結的な物語から脱却することでセカイの殻は突き破られる。

エロゲーも現実的には売れなくなってメーカーも撤退しているところも多いという。
ユーザー達が歳を取ったという現実もあるのだが、決して貧しくなくなって、軽佻浮薄な文化に従う必要すらなくなったからどこにも負い目を感じなくなってしまったのだろう。

セカイの殻を突き破ってみても広がるセカイは大して変わらなかった。
現実とセカイの違いなんてなかったとオタク達は気づいた。

オリンピックなんてリア充の極みかと思ったが、そんなことはなかった。
コロナ禍を恐れてオタクイベントが悉く中止になる様を見て、これまでの普通のイベントが中止になることとどこが違うのだろう。

ウイルスは平等に訪れる。

健康な人でさえもウイルスに罹る。

人を選びはしない。

現実は斯くも厳しい上に、どんな特権すら無力であって人々はそれこそ現実に向き合わざるを得なくなったのである。

これまでの鍵アニメには珍しい展開であったがやけに現実的であるような気がする。

大きな奇蹟は訪れないが、小さな奇蹟を拾うことは出来る。

それは人の努力によってである。

当たり前のことではあるが、努力は必ず報われることはないが積み重ねは出来るというもので、自らセカイを作り上げることさえも叶うのである。

これが「セカイの終わり」である。

神様になった日は「アルジャーノンに花束を」に似ているという指摘があったが、得てしているのだろう。





「アルジャーノンに花束を」の映画の邦題の名は「まごころを君に」である。

もはや分かりきっていることであろうが「まごころを君に」こそ旧劇エヴァの副題そのもので、全文は「Air/まごころを、君に」である。





さて、鍵ゲーアニメが世に知らしめた作品といえば何だろうか。
それはAIRであり、そしてセカイ系に終止符を打ったものこそ「まごころを君に/アルジャーノンに花束を(神様になった日)」なのである。
シン・エヴァンゲリオンの後にあるあの符号は終止記号らしい。コロンが付いているので繰り返しともされているが、繰り返した挙句漸く終わるというものなのだろう。

思えば、セカイ系とはループものが基本で真のエンディングに辿り着くまで何度も失敗を繰り返して辿り着くものなのだが、思いは永遠であっても人の命には限りがあるという現実が横たわる。




個人の命には限りこそあるが、次世代へと引き継ぐげば思いは永遠のものとなる。

そしてそれに気づいたとでも言えようか。

だからこそ、終わりを告げる必要があり新たに道を歩まねばならないのである。